昔に録画した兵庫県播磨平野のため池という番組を見ていたら
オニバスが出てきました。この地域は瀬戸内地方で雨が少ないためため池が多く作られました。漢字で鬼蓮で、植物全体に大きなトゲが生えており、つののイメージでそこから鬼の名がついたようです。鬼というものが認識されてから名前がつけられたので、この地域の水田とか、ため池とかも奈良時代か平安時代初めとか以前のものかもしれません。と思ったのですが、古名はミズフブキで鬼とは関係ないようです。オニバスは最近になってから付けられた名前かもしれません。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2014年7月27日日曜日
2014年7月21日月曜日
方言
方言についての分布図を図書館で見つけました。高価な本ですが、詳しく調べられています。インターネットでも見ることができました。ちらり見ですが、その中に「買う」の過去形の「コータ」と「カッタ」の違いの分布がありました。東日本と西日本とで分かれています。奈良時代以前の名字の分布と似たような感じを受けました。この時に貨幣経済があったのかはわかりませんが、影響を引きずってなんらかの違いが出てきたのかもしれないと思います。
国立国語研究所、方言文法全国地図PDF版
第2集第105図「買う」の過去形
http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-105.pdf
また
『日本言語地図』 第1集29
アカイを”明るい”の意味で使うか という分布図があります。
使うというのが西日本側(滋賀県・奈良県以西)、使わないというのが東日本側です。
奈良時代以前に明るいの意味があったのが、その後、東日本へ伝わっていく中で、なくなってしまったことに対応しているのかもしれません。奈良時代よりも前の時代から日本語が成立していく過程なのかとも想像されます。
http://www.ninjal.ac.jp/s_data/drep/laj_map/LAJ_028.pdf
方言文法全国地図PDF版
第93図、飽きたの分布
あきた→あいたの音便をとらえているようにも思います。分布の境界が中部地方にあります。奈良時代から平安時代初期の状況を示しているかもしれません。
http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-93.pdf
言葉によって方言の分布のパターンが違いますが、それが古い時代の日本が統一される前の状態の痕跡と考えられるのではと思いますが、単なる思い込みなのか、都合の良いデータだけを見ているので今のところ何とも言えません。
リンクがうまく出来ていません。上記のリンク先へたどっていってください。文章だけでは何を言ってるのかわかりにくいですが、方言が古い日本の状態を示し、その痕跡が今に残っているのではと思っています。
国立国語研究所、方言文法全国地図PDF版
第2集第105図「買う」の過去形
http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-105.pdf
また
『日本言語地図』 第1集29
アカイを”明るい”の意味で使うか という分布図があります。
使うというのが西日本側(滋賀県・奈良県以西)、使わないというのが東日本側です。
奈良時代以前に明るいの意味があったのが、その後、東日本へ伝わっていく中で、なくなってしまったことに対応しているのかもしれません。奈良時代よりも前の時代から日本語が成立していく過程なのかとも想像されます。
http://www.ninjal.ac.jp/s_data/drep/laj_map/LAJ_028.pdf
方言文法全国地図PDF版
第93図、飽きたの分布
あきた→あいたの音便をとらえているようにも思います。分布の境界が中部地方にあります。奈良時代から平安時代初期の状況を示しているかもしれません。
http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-93.pdf
言葉によって方言の分布のパターンが違いますが、それが古い時代の日本が統一される前の状態の痕跡と考えられるのではと思いますが、単なる思い込みなのか、都合の良いデータだけを見ているので今のところ何とも言えません。
リンクがうまく出来ていません。上記のリンク先へたどっていってください。文章だけでは何を言ってるのかわかりにくいですが、方言が古い日本の状態を示し、その痕跡が今に残っているのではと思っています。
2014年7月12日土曜日
なまはげ
この前の鶴林寺のことで思いつきました。秋田県の方に安田の名字が多いことがあります。条里制が秋田県の方に伝わっていったのであろうと想像できますが、この時に同時に鬼払いの風習が伝わっていったのではないかと思います。そうであれば、奈良時代か平安時代の初め、時の朝廷が東北侵略し、拠点となる地域から新田開発を行っていったことになります。なまはげと条里制が結びつけば良いのですが。
追記:H26.07.13
図書館でナマハゲの本を見てきました。起源についていろいろあるようで言いたい放題のような感じを受けました。しかし鬼払いの儀式とかについて書いてるものはぱっと見ではありませんでした。時代的には奈良時代では早すぎ、平安時代かもしれないですが、朝廷勢力が現地の人を威圧し、服従させようとした儀式で、単一の地域でなく広い範囲で行われ、それが現在に残っていると考えたいです。秋田県の条里制についてはあまり検出されていないようでしかも時代がもっと下がるようです。これもぱっと見で確実なものではありません。ちょこちょこと調べてわかる問題ではないです。
追記:H26.07.13
図書館でナマハゲの本を見てきました。起源についていろいろあるようで言いたい放題のような感じを受けました。しかし鬼払いの儀式とかについて書いてるものはぱっと見ではありませんでした。時代的には奈良時代では早すぎ、平安時代かもしれないですが、朝廷勢力が現地の人を威圧し、服従させようとした儀式で、単一の地域でなく広い範囲で行われ、それが現在に残っていると考えたいです。秋田県の条里制についてはあまり検出されていないようでしかも時代がもっと下がるようです。これもぱっと見で確実なものではありません。ちょこちょこと調べてわかる問題ではないです。
2014年7月10日木曜日
鶴林寺と安田
この前の日曜日、鶴林寺を訪れました。本当とは思えませんが、聖徳太子創建の古刹です。本堂・太子堂などが国宝です。本堂手前に菩提樹と沙羅双樹が配置されています。沙羅双樹の方だったと思いますが、その木が石柱で囲まれています。そこに、その石を寄進された人の名前が彫られています。その参詣路側に「安田 何某」と多数ありました。安田というのは地域の名前で、その地区の人がまとまって寄進したということでしょう。地図を見ると鶴林寺の近くに尾上安田というところがあります。おそらくこの地域の人が関係しているのだろうと想像します。とにかく安田という地域はおそらく古い時代の名前で、法華口というところも近くで見かけました。法華天台宗からきた地名と思われますが、奈良時代からある地域の雰囲気を残しています。鶴林寺の入り口手間に用水路のようなものがありましたが、条里制の痕跡であろうかとも思わなくもありません。安田という地名から条里制の存在をうかがわせます。7世紀後半からいつの時代であろうか、鶴林寺付近の古い地図があれば、はっきりとするかもしれませんが。残念ながら奈良時代以前を示す証拠はわかりません。しかし、それ以降の古い時代である可能性は十分あります。鶴林寺と安田で検索すると鶴林寺の正月の行事に修正会という行事があることがわかりました。鬼払いの前に安田吉道?という謡曲が奉納され、追儺(ついな)という鬼払いの儀式が行われるそうです。由緒では平安時代後期の村上天皇の御代、ともひら親王の後胤につながるそうです。時代的に詳しくしりたいと思います。鶴林寺の宝物殿で、鶴林寺と近くの一乗寺の寺に関する10哲?みたいな比較があり8人同じで、残りの1人が聖徳太子と弘法大師の違いでした。略してタイシさんというときにごっちゃになってるのかなとも思います。これはおいといて、条里制により田が整備され、その後に寺域が出来てきた可能性が高く(寺がありその周りに条里制の田が出来た可能性は小さいように思います)、いろいろ思うだけで、確証は無いのですが、加古川の西側の地域で条里制について何かしらありそうです。
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