2018年3月19日月曜日

鎌倉大仏

1262年(弘長2年)の説とかあるようです。
内部に入れます。中に銘板があり、大正12年の地震(関東大震災?)で修理を行ったことが記しています。もう一枚は、私にはほとんど読めませんが、昭和34年?ごろ調査及び修理がされたようです。

詳しくは、国宝鎌倉大佛因由にありました。

鎌倉の七切通のひとつ、朝夷奈切通


江戸時代にも整備されていたそうで、雰囲気が残っています。
途中、ぬかるんだところもあり、ハイキングコースです。往復したかったのですが、時間なくゆっくりできませんでした。鎌倉時代に土木工事が進んでいった様子が残されているといっても不思議ではありません。

以前の記事の関連から(志賀の大仏)、今回見学できてよかったです。

2018年3月18日日曜日

鶴岡八幡宮の軸線

 神社の参道は中央は神様が通る道とのことで、右か左を歩くとのことです。中央を意識しないといけないようです。
しかし、鶴岡八幡宮では段葛のところから鳥居を介して社殿を見ると左に寄っているように見えます。


また、舞殿を通して石段を見ると(中央部)、両端の切れた位置が左右で異なり、やはり石段が左に寄っているように見えます。


 つまるところ、中央を歩いても神社の中心線は避けていることになり気にしなくても良いのではと思います。この写真ではわずかに撮った位置がずれているようにも思えるので確認してみてください。軸線のずれを今まで意識したことはありませんでした。
 軸線のずれは昔からあったのかと思いましたが、鶴岡八幡宮はもともとお寺で、鶴岡八幡宮寺といったそうです。*より。
  家康・秀忠の改修があり、その時の絵図が残っています。*に図があるが、小さくてよくわかりません。その後の元禄の地震、文政の火災などもあり、明治の神仏分離とかで、軸線のこととかわからないのではと思います。寺の要素が排除され、配置も変化したのかもしれません。

*鶴岡八幡宮寺 -鎌倉の廃寺、貫 達人著、有隣新書

上記の本に二十五坊のことが書いてあります。源頼朝が、八幡神の本地仏の阿弥陀如来を安置し、二十五菩薩になぞらえて二十五坊をおいたとのことで、専門的な任務があったようです。二十五坊の初代の僧のうち、平家の一門とされる人が十五人いる。平家の一門だったといってもすべて殺されるものではなかったようです。

2018年3月17日土曜日

鶴岡八幡宮の源平池

平家物語の関連で、鶴岡八幡宮の源平池に興味を持ちました。

図の上の方が段葛で、参道、太鼓橋の両側が源平池

平家池の方の写真です。手前のロープ側も島の先です。3島向こうの方にあります。4島入れるのはむつかしいです。
 

昔は太鼓橋から両方の池が見渡せたと思いますが、今は太鼓橋でなく横を通ります。

池の中島にある弁財天社の由緒記に、
頼朝公夫人の政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景善に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家の滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
とありました。鎌倉時代には源平の対立のような考え方は無かったと考えていたので、少しショックでした。しかし、調べてみると
「御鎮座八百年 鶴岡八幡宮」平成三年十一月二十一日発行
発行:鶴岡八幡宮

上記の本の中の一二頁の源平池の解説に
寿永元年(1182)四月二十四日、社前の絃巻田と呼ばれる水田三町余の耕作をやめ、専光房良暹や大庭景義らが奉行になって池に改めた。源平池の名は江戸時代からの俗称で、東方の池中に三島(中ノ島に弁天社を祀る)を築き、三に産をかけて源氏池、西方の池には四島を築いて四を死にかけて平氏池と称したという伝説がある。七月中旬から八月中旬にかけて紅白の蓮が美しい。

とあり、伝説と書かれています。別の所には
池は開削された後、埋め立てられたりはしていないようだが、豊臣秀吉によって進められた造営に関する、いわゆる」天正の指図」には池が描かれていない。しかし、享保十七年の鶴岡八幡宮境内図には現在に近い池の姿が描かれている。その後、明治年間には池が埋め立てられ馬場に改めたり、また開削されたようである。
ともあり、池には変遷があり、秀吉の頃には池がなさそうで、政子の話は伝説と考えられているように思われました。当時は源氏と平氏の対立だけで無く、源氏の中でも対立があり、源平の対立でまとめられなかったはずなので、考え方を変えずにいけそうです。

(おまけ)白に関連して、段葛を登校する小学生。案外目立ちます。

2018年3月12日月曜日

安田義定(やすだよしさだ)

 平家物語に出てくる人のようです。源平合戦事典に詳しく述べられています。甲斐源氏の一人ということです。なぜ甲斐に安田という名があったかということに興味があります。
1.甲斐で条里制の田が開発され、安田の名が残った。奈良時代以前。
2.安田の名を持って(近畿・中部地方から)移住してきた。
  林→小林から、律令制の崩壊に伴うので、奈良時代か平安時代。
3.もちろんその他の可能性もあります。
 古い時代の中でも、甲斐は新興の地のように感じるので、2の可能性が大きいと私は考えます。

以下、
源平合戦事典、福田豊彦・関 幸彦 編、吉川弘文館発行
安田義定の項のメモです。

  平安・鎌倉前期の武将。清和源氏義光流、義光の子の義清が甲斐国に配流され、逸見《へみ》、武田・加賀美《かがみ》、小笠原、安田など甲斐源氏の祖となったという。尊卑分脈によれば、義定はこの義清の子清光の三郎子であるが、吾妻鏡は義清の子とする。長承三年(一一三四)生まれ。治承四年(一一八〇)八月、武田信義らとともに源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げ、波志太《はしだ》山の合戦で平家側を撃破し・・、玉葉によると、源氏の富士川の勝利は主として甲斐源氏の活躍によるもので、吾妻鏡はこののち頼朝が武田信義・安田義定を駿河・遠江の守護に任じたとするが、両国の支配は彼らが実力によって獲得したとみるのが妥当であろう。寿永二年(一一八三)七月に源義仲が入洛すると、義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、八月に従五位下遠江守に任じられた。これによって、実力による義定の遠江国支配は国家から公認されたことになるが、さらに義仲が北陸道の追捕使《ついぶし》に任じられると、義定は東海道の追捕使に任じられている。・・・義定は間もなく義仲と袂をわかち、その滅亡後は平家との一谷の戦に搦手《からめて》軍として参加、文治五年(一一八九)の奥州出兵にも従軍しており、頼朝との関係は次第に御家人的な色彩を強めるようになる。・・・
しかし、建久四年一一月、子息の越後守、義資《よしすけ》が院の女房に艶書(恋文)を送ったことが発覚。翌日に斬首される。その縁座として義定の所領遠江浅羽荘を没収され、翌年八月一九日には謀反計画の発覚を口実に梟首《きょうしゅ》、前滝口榎下重兼以下の供類五人が首を刎ねられた。享年六十一。その鎌倉の屋敷は北条義時に与えられ、遠江の守護職も北条家領となる。一連のこの出来事は頼朝の政策とは無関係のように見えるが、義資の付け文を表沙汰とした人物は頼朝の腹心梶原景時であり、客観的には範頼殺害に次ぐ有力源氏排除のじけんであった。これより先、甲斐源氏の棟梁武田信義も子息忠頼の事件によって頼朝の勘気を蒙ったまま、文治二年に没している。
参考文献「大日本史料四の四、建久五年八月十九日条(福田豊彦)

2018年3月8日木曜日

平家物語からのアナロジー

 最近、平家物語の講座を受けました。敦盛最後の段で、生年17の敦盛が熊谷次郎直実に討たれる話です。敦盛と言えば、織田信長が桶狭間の戦で敦盛を舞ってから出陣したことで有名です。人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。このフレーズが平家物語にあると思いましたが、全然出てきません。敦盛は能の演目になっているようで、その脚本のようなものを取り出したのが謡曲のようです。その中にあるのかと思いましたが、実はありませんでした。信長が舞ったのは幸若舞で、能・平曲(平家物語)と並んで中世庶民の耳目を楽しませた芸能とのことです。舞の本(新日本古典文学大系59、岩波書店)を借りてきて見たら、後半にありました。同じ敦盛ですが違いに驚きました。信長公記の桶狭間の戦の前の敦盛の舞の記述は嘘だったのかと疑いましたが、そうではないようです。
 平家が都を追われて、最終的には壇ノ浦で滅びます。平家物語の関係年表を見ると、1180年に源頼政が挙兵、その後に頼朝、木曽義仲が挙兵しますが、平家の壇ノ浦の戦いが1185年になり、5年間もあります。没落まで案外時間がかかっています。1184年正月に義仲敗死、二月には一ノ谷の戦いで平家が敗れています。その後、1年後の二月に屋島の戦い、三月に壇ノ浦の戦いとなり、平氏滅亡となります。屋島から壇ノ浦はすぐですが、一ノ谷から屋島の合戦までの1年間をもう少し詳しく知りたいと思いました。平家物語も「盛者必衰の理を示す」のテーマなので話もそれにあったものにはなってるのですが、奢れる者の何が悪かったのか興味を持ちます。
 屋島の合戦では1185年2月源義経、夜、風雨に乗じ150騎を率い、阿波へ漕ぎ渡る (吾妻鏡)。「勝浦合戦」義経、田口成良の弟桜庭良遠を破る(吾妻鏡)。「屋島合戦」義経、屋島の内裏を襲う。佐藤継信戦死。平宗盛以下、安徳天皇を奉じて西海に逃れる(吾妻鏡)。と源平合戦事典の年表にあります。屋島の合戦では那須与一が平家方の小舟に立てた扇の的を一矢でみごとに射落とした話で有名ですが、義経が屋島の内裏を急襲した感じでは本当か疑いたくなります。注意しないといけないようには思います。
 話変わって、神武天皇の東征の話ですが、平家と逆コースで似たようなものに思われます。平家が日宋貿易で利益を得て、ある程度、貨幣経済が発達した時代でも軍隊の移動は大変であるので、神武天皇も生活を維持しながら侵攻していくわけで、実態はどのようなものであったのか想像がつきません。それらしきものがあったのかも含めてです。
 また平家物語は、琵琶法師によって語られたということですので、もっと古い時代に、稗田阿礼が古事記を語り物のようにして伝えていたのかもしれないと思うと、案外嘘っぱちではなくて、何かしら伝承的なものがあり、文字化され古事記が出来たのかもしれないという気もしてきました。棒読みではなく、歌うような音楽を含めた、講談的(良くわわかってはいませんが)なものであったかもしれません。
少なくても音については、三分損益法が中国であり(紀元前3世紀らしい)、古墳時代とかに日本に伝わってきていて、音曲のような形で古事記があったとして不思議ではありません。単なる妄想の話ですが。

三分損益法

2018年3月7日水曜日

三分損益

 三分損益については、あちこちに記されているので、不要ではあると思うが、一応のメモ書きである。確認のため、電卓たたいて計算してみました。

 古い時代を考えるのに、音楽の知識を抜きにして考えているが、これで良いのかということがある。何かしら抜け落ちている部分があると思われます。
しかし、とっかかりがありません。
 CDブック、和歌を歌う 歌会始と和歌披講、笠間書院
からのメモです。
 雅楽の旋法は、呂と律がある。呂律がまわらないの語源である。中国から伝わったとのことで、音律の定め方に三分損益という方法があるとのことである。
弦の長さで言えば、三分の一を減じ、次にその音を基準に三分の一増やす、また三分の一減ずる。これを繰り返して音列を作り出す方法である。
最初の音をドとすれば、次の音は弦の長さが2/3になる。つまり周波数で言えば逆数で1.5倍の高さになる。これがソの音になるとのことである。
次は、2/3*(4/3)=8/9で、  逆数は9/8=1.125
次は、8/9*(2/3)=16/27で、逆数は27/16=1.6875
次、16/27*(4/3)=64/81、逆数は81/64≒1.1.266
次、64/81*(2/3)=128/243で、逆数は128/243≒1.898
次、128/243*(4/3)=512/729で、 逆数は729/512≒1.423
何をしているのかわからなくなってくるので
平均律で考えると、ドを1とするとオクターブ上のドは2となる。その上のドは4となり、等比級数になっている。1オクターブを12音で分ければ、2の12分の1乗づつ増加する。すると
ド ・・ 1.0
レ ・・ 1.122
ミ ・・ 1.260
ファ・・ 1.335
ソ ・・ 1.498
ラ ・・ 1.682
シ ・・ 1.888
ド ・・ 2.0
である。途中の数値は四捨五入しているが、三分損益との対応がわかる。
ド → ソ → レ → ラ → ミ → シ → ファ#
となる。ずれが出てくるが、三分損益では音の決め方が、基準音から完全5度あがり、次に完全4度下がる、これを繰り返していることになっているらしい。
実際にファの音はドの音との比で1.33なので、3:4のすっきりとした整数比だが、あらわれない。
この最初の5音をベースにしたのが呂音階で、ドレミソラが五声となる。宮ー商ー角ー微ー羽と名付ける。さらにシとファ#が二変声である。宮・微より一律(半音)低いことから変宮・変微と呼ぶ。
ピタゴラス音階では、完全5度と完全4度を考えるので、
最初のドの周波数を1とすれば、ドレミファソラシドの周波数は
1,9/8,81/64,4/3,3/2,27/16,243/128,2
となるそうです。
何が言いたいのかというと、音階は基本が分数比でできているので、
ばらつきがあっても世界共通の部分があるということです。分数の比で簡単に音階ができるので、古い時代から演奏が行われた可能性は大きいです。

(おまけ)
音楽で♯(シャープ)と♭(フラット)記号が出てきます。布などを引っ張り上げるととんがります。また土の山などをたたいて低くすると平坦になります。シャープとフラットにアップダウンの意味があったことに気がつきました。半音上がる方がシャープです。もう間違いません。

2018年2月18日日曜日

安田海岸

 ヤスダ海岸はなく、アンデン海岸とのことです。
2018年2月17日、日経プラス1のトップに何でもランキングがあります。
地層面のランキングで、第9位に挙げられていました。
場所は、秋田県男鹿市で
「海の時代や陸の時代別に」のサブタイトルがつけられています。
 約80万年以上前から8万年前までの地層が連続している。海の時代にできた層にはウニの化石、陸の時代には植物の化石など海と陸によって作られた地層が交互に続き、種類別に観察できる。・・・とのこと。
 興味を持ったのは何万年も昔の話ではなく、おそらく奈良時代か平安時代以降に、この海岸の名前がついたと思われ、秋田県に安田の名字が多いことと何らかの関係があると思われます。このあたりは、まったく記事にはふれられていません(当然ですが)。
奥の地層を見るには水深10~30センチの小川を渡るので長靴が必須。
JR男鹿線「脇本駅」から車で20分
http://www.oga-ogata-geo.jp/ (男鹿半島・大潟ジオパーク)とのこと。

 安田の名字と結びつけようとする人はそんなにいないとは思いますが、
行ってみたいところではあります。海べりの場所で、海岸から安田の名字の人が入植したと考えたいです。
安田が秋田県に多い(新潟県に少ない)理由