2016年10月12日水曜日

法起寺三重塔露盤

 法起寺は奈良県奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、この塔の露盤銘からは聖徳太子の遺命により山背大兄王が岡本宮を寺に改めたと伝えられています。


 



 露盤の所、屋根の上の方にあり、2面しか見てないですが、現在は文字などわかりません。昔からのものと勘違いしていました。現在のものは違うようです。

 次のは明治時代の写真です。相輪が5個か6個しかないので、現在のもの(九輪ある)は修復されたか、新しいもののようです。屋根が重そうでつっかい棒のようなものが見えます。現在は補強金具が屋根の下に取り付けられていてかっこよくはなっています。江戸時代の様式らしきものも元に戻されているようです。写真は勝手に持ってきました。ネットで見ることができ、ありがたいです。明治5年より



結局の所、大山氏の論文では、明治時代には露盤銘は見つかっていないようで、詳細に調べられていて、偽であるとしていますが、そうだろうと思います。

 現在の伽藍の中心軸は南北になっています。法隆寺や法輪寺が軸線が反時計側にずれているのと対応していません。しかしながら昭和の解体修理前の調査で、法隆寺若草伽藍の方位と一致していたそうです。法輪寺も今の法隆寺とは違うなと思っていましたが、若草伽藍のと一致していそうです。古来よりの、法起寺・法輪寺・法隆寺の関係など興味はありますが、後回しになりそうです。

順番としては
1.法隆寺の若草伽藍、四天王寺式の一直線の並び
2.法起寺の古いもの、金堂・塔が横並びに変化
2.法輪寺、法起寺と並びが反転
4.現法隆寺、方位が変わり、法輪寺タイプ
5.法起寺、現法隆寺をモデルに方位を北にする。横の並びはそのまま
と考えて良いのかどうか? 

短期間に大きな変化があった時代のような感じはします。まとまり無いですがメモ書きです。

2016年9月27日火曜日

やすんば

 奈良県北東部、元は都祁村というところ、今は奈良市に編入された地域に、雄神神社と国津神社(都祁白石)の間の水田の中にやすんばと呼ばれる樹叢(藪のようなものの意味?)があります。


写真は雄神神社側から、国津神社を見ています。矢印がやすんばで、少し低地にあります。4カ所あるそうですが、1カ所見落としました。


 神様が雄神神社から国津神社に訪れるときに休まれる場所としてシンボリックに示したもののようです。「やすんばについて、神が訪れる道」など。
 野々神岳から国津神社までの経路で神社間を具体的に示すことが、水田で収穫を増やすよりも地域で重要視されていたわけで、信仰からか神社なども古来よりきちんと管理されています。私は「やすんば」が水田開発の当初に作られたと想像します。
 実際に歩いてわかることですが、神社からはどちらも下り坂で。棚田のようになっています。ここからは妄想ですが、このやすんば付近はもともと池か川かの低湿地ではなかったかという気がします。排水工事をして、水田を造成し、その中で少し出っ張ったところで良さそうな所をやすんばとした可能性はあると思います。単純に考えると、山の中の木を伐採し整地して田んぼを作るより、池などの水を抜いた方が容易です。また国津神社の名前ですが、津とは昔には港を意味します。池か川が近くにあったことを想像させます。近くには国津神社がほかにもあり、高台のような所にあるようです。それと雄神神社は「三輪さんの奥の院」ともいわれ、社殿は無く、山がご神体となっていて、古い時代の神社であることを示しています。これらからカンピュータでは「やすんば」は7世紀以前の話に思えます。
 こんな土木工事ができたのかということですが、万葉集に
「大君は 神にしませば 水鳥の
 すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつ」
の歌があるので、すでにそこそこの開発工事は可能であったはずです。
 ある程度の高地の方が排水の面で稲作の地域を容易に拡大することができたことから、この地域が発展していったと考えられ、また奈良県全体ももともと湿地帯であって、排水工事が容易であることから新田開発が容易であり、食料生産も拡大し、その結果人口も増え発展していった可能性があります。どうして奈良県のような内地に大きな古墳とかできたのか不明でしたが、なんとなくわかった雰囲気になってきました。
やすんばの写真をもう一枚。庭園の中島のようになっています。

訂正:H28.10.08
国津神社はもともとこの地にあった名前ではなく、近くの国津神社との関係を示したいとしての名前のようです。10世紀ごろの話で、取り消し線のところは間違いです。妄想であって、恥ずかしいですが残しておきます。

2016年5月6日金曜日

地名

 歴史探索入門(小和田哲男)を図書館でたまたま見つけ、借りてきて読んでいます。
地名を手がかりに城館跡を発見する方法について書いてあります(第4章地名・屋号は生きてる)。
 その中で面白かったのが、仮名にして見えてくる地名のところです。
蟹打台という地名が、元は鐘打台→かねうちだい→かにうちだい→蟹打台と変化したとのことです。竹の内はもともと、舘ノ内→たてのうち→たけのうち→竹の内、松葉も元々は的場→まとば→まつば→松葉の変化ということらしいです。
 法師丸というところを探したが、なかなか見つからず池に星丸池があることを教えてもらい、ほうしまる→ほしまるになったことがわかった、漢字で考えるだけではだめで、口に出して発音し、仮名にすることが大事であると書かれています。

 保田という名字がありますが、これも安田→やすだ→保田じゃないかという気がしてきました。以前、田中という名字のお墓が多い中に中田というお墓がありました。これと同じで安田→田安など昔の人は柔軟に考えていたのだと思います。
 永守→永森、柿守→柿森などの例も示されていて、森といっても森林の意味ではないということのようです。石森、水森なども石ノ森・水の森?となりますが、石守・水守だとしっくりきます。
 

2016年4月3日日曜日

方言について

 今まで方言について調べなくてはと思いつつ何もしていませんでした。
最近録画した、NHK放送大学日本語概説講座で終わりの方で方言が扱われていました。
方言の誕生ということで
 ①中央語の地方への伝播(方言周圏論)
 ②地方における語の変容(自立的変化)
この二つの要因を考慮する必要があるとのことです。
実際には時代的なことを考えていかなければいけないと感じていて、
方言は日本の国の成立と大きな関係があると思います。
個人的には
 ③もともと日本にはいくつかの国に相当するものがあり、その違いが方言に残っている。
と考えたいです。
方言を地理的に区分するものとして東条操は日本語を琉球方言と本土方言に分け、本土方言は東部方言・西部方言・九州方言の三つに分類してるようです。
第14回の講座テキストには「方言分布とその解釈」の中で東西対立型の分布のことが書いてあります。
「居る」ですが、イルは東日本でオルは西日本で、その境界が本州を二分する中部地方にあります。この例から人々の通行を阻む地形が言葉の広がりを阻んだと考えられています。・・と書いてあります。そうかな?と思います。
方言の日本地図-ことばの旅-、真田信治著、講談社の35ページに東西方言境界線の図があります。この図では長野と富山の県境では境界線が束になっていますが、言葉によっては東海側では拡散した扇状に拡がっていて境界線とは言えないようです。政治的・経済的領域が時代が下がることで東進していき、言葉に影響しそれが固定化されて残っていった気がしますが、まだまだ思いつきです。

2016年3月28日月曜日

歴史的仮名遣い

 江戸時代の僧侶・国学者の契沖は950年以前の文献から、それに従って仮名遣いを決めるべきであるとして『和字正濫抄』を著し、これが国学者の間に広まり、明治政府はこれを採用し「歴史的仮名遣い」となったようです。この歴史的仮名遣いは10世紀以前のあり方を19世紀、20世紀に復古的に再現しようとしたもので、10世紀以降江戸時代までの大部分の日本人は歴史的仮名遣いは知らなかったとのことです。明治になり水戸藩の国学の影響で、皇国史観が確立されたのと対応していると思いました。

NHK放送大学、日本語概説 日本語の文字と表記 第10回(2015年度再放送)を見て

2016年2月28日日曜日

伊丹廃寺跡

 ぶらぶら歩いていて、伊丹廃寺跡を通りました。法隆寺と同じ伽藍配置をもつようです。
公園になっていて、金堂と塔の基壇部分が復元されていました。
たぶん忘れてしまうのでメモです。以下は説明板です。