正倉院古文書正集、第43巻が展示されていました。その中に遣唐使に供給した食料が計上されています。遣唐使の南島路があったのではないかということです。自分でもブログ記事にかいていたのを思い出しました。かなり忘れてますが、気が向いたらまとめようと思います。
薩摩国正税帳とは
遣唐使の南島路については
琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究( 15.資料編 )
↑多分つながりません。検索した時はどういうわけか見れました。
山里純一氏の話でトカラ列島に関しての部分である。242ページ(PDFでは6ページ)
天平4年に任命された遣唐使は、帰る時に恐らく4船で蘇州を出発したと思われますが、
途中悪い風、ヤナカジが吹いて4船ばらばらになってしまうわけですね。第一船と第二船に関しては史料がありまして、『続日本紀」の記事によれば第一船に乗った遣唐使たちが多補島について、そして都に帰ってきています。それから第二船も蘇州を出発して間もなく漂流しますけれども、南海に入って中国に戻った後に、日本に帰るために再度出発しまして、随分遅れますけども無事天平8年に帰ってきたという記事があります。この第二船に関しては、「続日本紀」ではどういうルートで帰ってきたかということは出てまいりません。しかし正倉院文書として残っている天平8年度の薩摩国正税帳の支出項目に遣唐使第二船に対して食糧を支給したことが出てまいりますので、天平8年度には少なくともこの遣唐使船の乗組員が、薩摩国を通過したことがわかります。薩摩国を通過したということは、そのあたり史料はありませんけども、おそらく直接薩摩の国に漂着したのではなくて、第一船同様多禰島、あるいはそれ以南のどこかの島に着き、南島を経由して薩摩国に上陸したのだろうというふうに考えられます。
というようなことが書かれていました。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2019年10月31日木曜日
2019年10月24日木曜日
琵琶湖のネットワーク
以前に滋賀県に川のつく名字が多いような気がすると思っていました。
名字:中川、西川、北川
https://yasudakasetu.blogspot.com/2013/09/blog-post_9.html
湖上のネットワークだけでなく、琵琶湖にそそぐ河川を含めて
近江全体がネットワークになっていたような気がしてきました。
稲部遺跡で大型建造物発見
https://yasudakasetu.blogspot.com/2016/10/blog-post_20.html
琵琶湖周辺に港があり、各地の河川で内陸側まで船でつながっていた話です。
名字:中川、西川、北川
https://yasudakasetu.blogspot.com/2013/09/blog-post_9.html
湖上のネットワークだけでなく、琵琶湖にそそぐ河川を含めて
近江全体がネットワークになっていたような気がしてきました。
稲部遺跡で大型建造物発見
https://yasudakasetu.blogspot.com/2016/10/blog-post_20.html
琵琶湖周辺に港があり、各地の河川で内陸側まで船でつながっていた話です。
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