2017年6月4日日曜日

奈良、旧国名地名

 奈良県磯城郡田原本町に十六面というところがあります。漢字だけを見ていればわかりませんが、Jurokusenと読みます。道路の標識で知りました。線と面は適当なところがあり、角材のとがったところの角を落とすのを面取りと言います。実際は線取りだとは思いますが、この地も、「せん」の発音に漢字を当てるときに面としたのだと思います。奈良県の地名にはもともと発音していたものに、対応する意味の漢字を当てた痕跡が残っているのではということで、興味をもっています。
 奈良の地名の本を図書館で借りてきました。
奈良地名の由来を歩く、谷川彰英著、KKベストセラーズです。
最後の第七章で、奈良の旧国名について書かれています。天理市では、上総・備前・武蔵。桜井市では出雲・吉備など、旧国名の地名が多く残っているということです。
 この本で指摘されているのは、旧国名の地域が
①西日本に偏っている
②実は畿内の国名は見当たらない
③東海道沿いにはかなり勢力が伸びていたと考えられる。
④奈良市には皆無である
とのことです。
 また、奈良県の図書館で
地名の考古学--奈良地名伝承論、池田末則著、勉誠出版、12000円(税別)
もちらっと見ました。こちらの本では、旧国名の地域が大和川流域の平坦部、藤原宮跡を中心とする地域となっています。
 同じ国名の地域があることから、この地域の出身者が各地方に進出し、国名になったのではなく、各地域から人が集まり、その出身地の地名になったものと思われます。桜井市に残っている吉備というところはその横が安倍で、遣唐使で同期の阿倍仲麻呂と吉備真備とかの関係があったのかとも思います。
 江戸時代の各大名の江戸屋敷みたいなものでそれぞれの地域の出先機関があったかもしれません。おそらく自給自足が原則で食べるものなども調達しなければならないので、ある程度の領域を必要としたのかもしれません。
安田仮説での地図との関連ですが、大雑把には、西日本中心ということで、まあ合ってるように思います。細かくには、名字が先で国名が後であり、日本の統一の過程があらわれているのだとは思いますが、良くわかりません。日本に漢字が導入され、文字を通じての中央集権化(言向け和す?)のような変化が奈良の地から急激に起こっていたのではということにしておきます。
下は奈良県基準の名字パターンの相関係数、奈良県の分布に近いほど黒っぽくなります。
奈良時代の影響が残っていると考えています。

2017年6月3日土曜日

奈良の地名

 名字の長谷川から思い出してきて、奈良の地名に興味を持っています。「ながたに」と書いて「はせ」と読むのは、長谷寺とかある地域がちょうど長い渓谷の地域にあり、漢字が導入されたときに発音はそのままに、漢字はその地域の形状的な特徴などを元に名を表すものになったためと思われます。たとえば、日本に山という漢字が入ってきたときに、「やま」という言葉に漢字がくっついた と考えられます。
 平城京をナラノミヤコとふりがなをつけてあるのを見て、平城の部分がならに相当します。ならが発音で、地域の形態を表したのが平「城」であろうと思いました。「城」は都が城壁に囲まれていて、都のことを示していますが、平らな城であることを示しています。今まで意識してませんでしたが、実際に都とされた場所は、最初から平坦な地域ではなく、でこぼこなどのところを整地して(ならして)建設されたところであろうと考えられます。「平」に「ならす」の意味があるということです。
「大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都と成しつ」
という歌もあるぐらいで、都を作るのに土地の造成事業とか、今では考えられないくらいに大変なものであったかもしれません。都は大王の存在価値を示すようなシンボルであったとも考えられます。漢字は意味を表し、発音は和語を表すという例になるかもと思います。
 古代地名紀行ー大和の風土と文化、池田末則著、東洋書院の最初の方、13ページから、奈良についてのところに「ならす」との記述がありました。昔から考えている人がいたということです。

2017年6月1日木曜日

井上、田中、田伏

 寝屋川市に石の宝殿古墳があります。寝屋川市ホームぺージによれば、発掘調査の時の須恵器の小片から7世紀中ごろのものとされています。また古墳背後の埋まった石と列石から角度が135度あり、古墳の形が八角形の可能性もあるそうです。八角形といえば天武天皇のお墓とされる野口王墓も八角形です。この時代の可能性がたかまります。とにかく7世紀のこの地域の有力豪族の墓とのことです。ここは打上神社の奥にあります。神社の鳥居の額には甲良神社とあるところです。
 ここからが本題ですが、この神社の玉垣というのかわかりませんが、石の垣根にある名前で,同じ名字で古い時代の痕跡が残っている地域です。この地域の人の名前が彫られているようです。
井上、田中、田伏が目立ちます。
『井上』は井が条里制の田んぼの形状を線で表したもので、結局田んぼの上の方の意味です。また『田中』は文字通り田んぼの中ほどの意味だと思います。『田伏』は私の想像ですが、伏せた姿勢から下の意味だと思います。つまりこの地域は田んぼの上・中・下を現した名字から成立してることになります。先ほどの古墳はこの地域で条里制の田んぼを開発していった有力者のお墓であり、この地域が7世紀中ほどまでには開発されていったこと、その時の名字の発生とつながりがあることを印象付けるものだと思います。
あと、『田伐』という名字も目立ちました。伐採しながら田んぼを開発していった様子がうかがえます。