2016年11月23日水曜日

安田が秋田県に多い(新潟県に少ない)理由

 以前から感じていたのですが、メモ書きで残しておきます。
 少し前のテレビの知恵泉で徳川家康が、今の江戸を開発したといっていました。昔は湿地帯であったのですが、天下普請で、全国から人を集め、開発したとのことです。手作業的なイメージでしたが、築城での石垣など、当時の土木建築作業は大工事も可能になるように進化していたと想像します。つまり、奈良・平安時代には江戸の町を作るだけの技術が無く、大和の政権が東に進出していくときに(海伝いに)、江戸の付近をパスしたように思います。同じことが、日本海側でも考えられます。奈良・平安時代には、新潟県の付近は新【潟】県というように湿地帯で開発困難な地域であって、ここをパスして秋田県へのシフトしたということです。秋田県で条里制の新田開発を始め、これが安田が秋田県に多い理由になるかもしれません。時代的には奈良・平安時代で、このときに宮中の追儺というか鬼遣らいの行事が伝わっていったと考えられます。それが、なまはげとなり、現在に伝わったとして、つじつまはあいます。東北の人を蝦夷のように呼んでいたので、現地の人を強制労働で開発していった、貧窮問答歌の世界があったのかもしれません。

2016年11月10日木曜日

『日本農業史』

木村茂光 編
吉川弘文館
ISBN978-4-642-08046-0


稲作中心の伝統的農業史観から、もっと多様で豊かな農業について書いてある2010年発行の本です。
農耕の始まりから古代・中世・近世と時代を追って専門の担当者に分かれていて、歴史を学ぶ上で改めて農業が重要なベースになっていることを実感します。
言葉で迷ったのでメモ
鍬(クワ)・・土を引っ掻く農具
鋤(スキ)・・土を引き起こすスコップのような農具で人力のもの
犂(スキ)・・上と同じだが、牛馬によるもの
図書館から借りて前半しか読めていないが31ページからの耕地の拡大の話は参考になりました。
古墳時代の巨大な前方後円墳と耕地の大開発とを短絡的に結びつける理解であって、『5世紀=大開発時代』説を裏付けることはできないらしいです(広瀬和雄:耕地の開発、古代史の論点Ⅰ環境と食料生産、小学館)
広瀬によれば
水田開発の時期の画期は二つあった。と主張しているとのこと。
第一段階は縄文時代晩期後半=弥生時代先Ⅰ期で、灌漑施設を伴う完成された水田稲作の技術体系が受容された時期である。第二は七世紀初頭で、畿内およびその周辺に.最新の技術を駆使した灌漑弘法ーー長大な灌漑水路とため池の建設ーーが定着した時期である。
第二の画期が一気生じたものではないらしい。広瀬によれば、最古のため池の一つとされる狭山池の築造がほぼ7世紀初頭とされる。
33ページには条里制が7世紀後半に登場し、徐々に普及したと書いています。
37ページから
 東国における犂の発掘事例はほとんどないので、その伝搬過程を検証することはできないが、七世紀頃西日本に本格的に導入された牛馬耕が、七世紀初期の畿内地方における国家的な大規模開発と連動していたことを考えるならば東国がヤマト政権さらに律令国家に編成されていく過程で進んだ技術を継受し、八世紀前後には水田区画面積の拡大を実現した、と推定することも可能であろう。・・・
 確かに37ページの群馬県における水田区画面積の時代的変遷の図では奈良・平安時代に急激に増大しています。

どこから引用されてるかわかりませんが、
条里制を起源とする安田の名字の7世紀後半とか、西日本から東日本へ発展していくところなど、安田仮説とマッチしていて力づけられます。

第68回正倉院展

出かけてきました。平日でも1時間待ちでした。しかし楽しい一日になりました。

撥鏤飛鳥形(ばちるのひちょうがた)など後で図録を見ればよいやと思いましたが、細かくは写ってなく、その場で見ないとダメだったと思いました。

 今年は古文書の展示が多いように感じ、個人的には展示57番の御野国の戸籍(美濃→岐阜県)が興味深く見ました。もちろん内容を理解できてはいないのですが、私の戸籍のイメージとは違っていました。名字の区別では無く、戸主との関係で名前が重視されているようです。大家族制の名簿の雰囲気です。ねばって探しましたが、今ある一般的な名字は古田だけでした。戸籍は階層的なもので、現在とは全く違う印象です。
 展示58番に出雲の国の給付者名簿があります。これは天平11年(739)に賑給(神馬が対馬で見つかったことで臨時的に各地の対象者に食料を支給された政策のようです)の出雲の国の該当する人の名簿ですが、私自身は年齢のバランスが悪いように感じました。図録にも慎重な検討が必要であるとありましたので、57番に戻りますが、安田の名字とかが無くても、仕方がないと考えます。
 大家族制であれば、名字の変更などでは構成員が多いので、皆の合意が得られるような理屈っぽいものになるかもしれないと思います。平安時代の藤原氏隆盛の時代に、名字に藤の字が取り込まれます。その時に、藤×(岡本)=藤岡+藤本 のような名字分配の法則が成立した気がします。