馬から牧場を思い出し、関係ありそうな牧野の分布を探してみました。
残念ながら古墳時代の痕跡はわかりませんが、中部地方に多そうで、奈良時代より少し前から平安時代に出来た名字のように想像されます。
ウィキペディアには
平安時代の『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の4ヶ所)の計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所(阿久原牧、小野牧)が増設されている。なお、追加された2牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に何らかの関与したとする見方もある。
勅旨牧(ちょくしまき)
平安時代には牧が東の方に広がっていくように見えます。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2015年4月25日土曜日
古墳の造営にかかる労働力
大仙古墳について大林組が試算したものがあるようです。
ここでの前提条件として
牛馬は使用しないとあります。大仙古墳はわかりませんが、馬具が発掘された古墳もあるようです。大規模な工事では牛馬が使われていたような気がします。確証はないですが、現実的な数値にはなると思います。
ウィキペディア
ここでの前提条件として
牛馬は使用しないとあります。大仙古墳はわかりませんが、馬具が発掘された古墳もあるようです。大規模な工事では牛馬が使われていたような気がします。確証はないですが、現実的な数値にはなると思います。
ウィキペディア
2015年4月19日日曜日
「古墳時代を再考する」を読んで
広瀬和雄著、同成社、2013年9月20日発行です。2500円+税。
古墳についてなんだかわからない状態でしたが、最近出版された本で、だれそれのお墓とか書いていない本を図書館で探していて見つけました。この本は古墳について参考になると思います。
---理解したこと---
古墳時代とその後の律令国家体制は別物である。
日本書記にとらわれてはいけない。
-----------
安田仮説では、奈良時代ではまだ西日本が統一された状態で、東日本は空白の状態であったとの理解でした。しかしこの本では、古墳時代は全国的に前方後円墳や、前方後方墳などがあり、対等ではなく階層性があり、中央と地方の関係があったとあります。同じような埋葬の文化があることで、日本が統一されていたとは思いませんが、強い結びつきがあるとは思われます。このあたり追っていけるかわかりませんが、今後の私の課題になります。
抜き書きですが、
34ページに平城京やその周辺京城の造営に際してたくさんの前方後円墳が破壊された事実があり、律令国家体制の貴族は古墳の価値を認めておらず、それまでの古墳に価値を持つ時代とはまったく異質であると考えられるとのことです。これは日本書紀における神武天皇からつながるという内容と相反するもので、天皇系統図が作為的なものであるということと整合性があります。
この本で挙げられている問題として
1.前方後円墳とは何か
2.前方後円墳の成立と消滅
3.前方後円墳に媒介された政治秩序
について述べられています。このあたりはあんまり理解できていません。
186ページで前方後円墳の終末について、隋・唐の統一と朝鮮半島への進出、それと政治連合を結んだ新羅の朝鮮統一といった緊迫した東アジア情勢が引き金になったとのことである。個人的に思うことは岡山県で鬼ノ城があります。土木的な知識が無いのですが、これも大工事だと想像します。巨大な前方後円墳を作ったエネルギーがこのような山城に換わっていったのかなと思います。時代的に合っていれば面白いのですが。後、高安城というのもあったなと思い出しました。西日本での前方後円墳の消滅に、このような山城を作るためと考えられればすっきりとします。
古墳についてなんだかわからない状態でしたが、最近出版された本で、だれそれのお墓とか書いていない本を図書館で探していて見つけました。この本は古墳について参考になると思います。
---理解したこと---
古墳時代とその後の律令国家体制は別物である。
日本書記にとらわれてはいけない。
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安田仮説では、奈良時代ではまだ西日本が統一された状態で、東日本は空白の状態であったとの理解でした。しかしこの本では、古墳時代は全国的に前方後円墳や、前方後方墳などがあり、対等ではなく階層性があり、中央と地方の関係があったとあります。同じような埋葬の文化があることで、日本が統一されていたとは思いませんが、強い結びつきがあるとは思われます。このあたり追っていけるかわかりませんが、今後の私の課題になります。
抜き書きですが、
34ページに平城京やその周辺京城の造営に際してたくさんの前方後円墳が破壊された事実があり、律令国家体制の貴族は古墳の価値を認めておらず、それまでの古墳に価値を持つ時代とはまったく異質であると考えられるとのことです。これは日本書紀における神武天皇からつながるという内容と相反するもので、天皇系統図が作為的なものであるということと整合性があります。
この本で挙げられている問題として
1.前方後円墳とは何か
2.前方後円墳の成立と消滅
3.前方後円墳に媒介された政治秩序
について述べられています。このあたりはあんまり理解できていません。
186ページで前方後円墳の終末について、隋・唐の統一と朝鮮半島への進出、それと政治連合を結んだ新羅の朝鮮統一といった緊迫した東アジア情勢が引き金になったとのことである。個人的に思うことは岡山県で鬼ノ城があります。土木的な知識が無いのですが、これも大工事だと想像します。巨大な前方後円墳を作ったエネルギーがこのような山城に換わっていったのかなと思います。時代的に合っていれば面白いのですが。後、高安城というのもあったなと思い出しました。西日本での前方後円墳の消滅に、このような山城を作るためと考えられればすっきりとします。
2015年4月4日土曜日
雑)百舌鳥古墳群巡り
古墳はどんなものだろうということで堺市へ出かけました。市役所の21階からの展望です。
山のような形で場所はわかりますが、前方後円墳だとはわかりません。
この写真で左の手前、南海高野線が見えます。緑のくぼみのところですが、低くなっているところを走っているように見えます。阪和線で大仙古墳(仁徳天皇陵)の近くで、天皇陵と同じ目線では不敬にあたるとのことで低くしたということらしいですが(ボランティアガイドの人の話)、南海もそうなのかなと思えます。両線は三国ヶ丘駅で交差し、高野線の方は上を通ります。下の写真、右下レールは阪和線。
古墳巡りコースで、反正天皇陵古墳→永山古墳→仁徳天皇陵古墳→履中天皇陵古墳→いたすけ古墳→御廟山古墳→ニサンザイ古墳と回りました。御廟山古墳くらいから前方後円墳の形がわかるようになってきました。
古墳巡りでは、道に迷ったりしてプラン通りには進めませんでした。レンタサイクルを利用して良かったです。
山のような形で場所はわかりますが、前方後円墳だとはわかりません。
この写真で左の手前、南海高野線が見えます。緑のくぼみのところですが、低くなっているところを走っているように見えます。阪和線で大仙古墳(仁徳天皇陵)の近くで、天皇陵と同じ目線では不敬にあたるとのことで低くしたということらしいですが(ボランティアガイドの人の話)、南海もそうなのかなと思えます。両線は三国ヶ丘駅で交差し、高野線の方は上を通ります。下の写真、右下レールは阪和線。
古墳巡りコースで、反正天皇陵古墳→永山古墳→仁徳天皇陵古墳→履中天皇陵古墳→いたすけ古墳→御廟山古墳→ニサンザイ古墳と回りました。御廟山古墳くらいから前方後円墳の形がわかるようになってきました。
方墳の右角から見たところ、中央の方墳と右手の円墳のところはっきりとしています。
次は、方墳の左端の方から見たところ。方墳と円墳の間の造りだしがわかります。この部分は左右非対称になっています。古墳巡りでは、道に迷ったりしてプラン通りには進めませんでした。レンタサイクルを利用して良かったです。
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