安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2014年11月24日月曜日
東西南北の名字
石造美術の勉強会で能勢(大阪の北部)に連れて行ってもらいました。鎌倉・室町以降の石造品が多く残っているところです。本光寺のお墓で東家と喜多家がありました。何軒かあったので、昔からそこに住んでいて、東と喜多(北)がペアになっていると思います。またその後、近くの今西共同墓地に行きましたが、その地域で西のつく名字を感じました。おそらく今西も元は岩西ではなかったかとも思いますが、この地域で西のつく名字があり、方角を感じました。西方浄土の考えが残っているのかもしれません。ここで南はどうかと言うことです。お墓で南があると早とちりしましたが、南無妙法蓮華経の「南」の文字でした。能勢氏中興の祖、能勢頼次が領内の寺に日蓮宗への改宗を命じたことにより、この地域は日蓮宗に変わったしまったようです。従って南家のお墓は紛らわしいのか、名字に使うのはけしからんということなのかわかりませんが、無くなってしまったのではと思いました。このあたり調べれば良いのですが、思いつきで、裏付けはありません。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿