2013年8月29日木曜日

670年から690年の日本(ヤマト?)


今の時代の名字のデータからなぜ昔の分布が現れるのかということを考えてみました。
奈良時代は西日本一帯が一様に思えます。その後、奈良時代の状態から平安時代にかけては東の方にどんどん進出していってます。
なぜだか悩んでいた時、奈良時代の前に戸籍が作られたことを知りました(日本書記での話)。当時の東アジア情勢が緊張状態にある中で、切羽詰まったなか、国家の体制をきちんと作るには住人の把握が必要です。賦役・税金や徴兵など個人を管理する必要があります。その当時では個人の認識番号みたいなものは考えられません。無理矢理に名字が作られたはずです。その時では、平仮名・片仮名など無かった。また文字を知らない人ばかりだと思われます。書類上だけでなく本人も認識しなくてはなりません。そこで名字に、目で見てわかりやすい、画数の少ない、左右対称の漢字が選ばれたと想像します。山本・田中など。さらに二文字にして組み合わせの種類を増やしました。今ある日本的な名字の始まりになります。これらの影響が現在の西日本にささっと書ける簡単な名字が多いことに残っているように思われます。日本書紀が正しいとすれば、全国的な戸籍と考えられる庚午年籍(670)や庚寅年籍(690)が作られた時代の分布を表していると想定されます。従ってこの奈良時代の分布(高知県の分布で考える)は670年以降690年くらい、奈良時代の少し前の状態を表していると考えたい。「安田仮説」本では常陸国風土記を考えると矛盾していると述べましたが、常陸国風土記の世界、茂木雅博著、同成社では、成立が715年より前か721年以降となっていました。急速な東方への進出が行われたか、飛び地であったのか、この分布図が間違いかのどれかということになりますが、間違いではないとして論を進めていきます。



追記
北海道は明治時代に全国から(東北が多い)開拓のために人が集まりました。その影響で相関が高くなっています。奈良時代とは関係ないので注意が必要です。東京も後の時代の影響ありとして無視しています。

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