安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2013年8月30日金曜日
ヤマトタケルノミコトの東征
実は困った問題です。ヤマトタケルノミコトは日本武尊または倭建命、第12代景行天皇の皇子とされ、日本書紀や古事記においてのヒーローです。このヤマトタケルノミコトの東征の話があります。この時代がいつ頃かを考えると、670-690年時点の分布図では岐阜県より以東はヤマト政権の領域外という奈良県の分布図から見て、東に向かう話は古い時代とは思えません。東国を平定後、ヤマトタケルノミコトがヤマト政権の国境あたりでさまよい死んでしまうのも妙にリアリティがあります。ヤマトタケルノミコトの伝説は6世紀後半から7世紀前半くらいの話だと言えば、エエーッと思う人が多いのではないでしょうか。このことは「安田仮説」本ではまったくふれてませんというか、考えていませんでした。景行天皇が7世紀前半の人であれば問題なくなってきます。ウィキペディアでは、景行天皇について、「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、・・・とあります。この説を採れば問題は一応解消されます。しかしそれでつじつまが合ってるのかよく考えないといけない問題ではありますが、いったん打ちきりとします。
参考に高知県を基準にした図で北海道、関東地方、大分県を周りのレベルに修正した図を参考に示します。本当は高知県の図を見てもらえばいいんですが。東征の図はネットで探してもらえば出てきます。資料をまとめられておられる方は大変だと思います。当方は手抜きです。
2013年8月29日木曜日
670年から690年の日本(ヤマト?)
今の時代の名字のデータからなぜ昔の分布が現れるのかということを考えてみました。
奈良時代は西日本一帯が一様に思えます。その後、奈良時代の状態から平安時代にかけては東の方にどんどん進出していってます。
なぜだか悩んでいた時、奈良時代の前に戸籍が作られたことを知りました(日本書記での話)。当時の東アジア情勢が緊張状態にある中で、切羽詰まったなか、国家の体制をきちんと作るには住人の把握が必要です。賦役・税金や徴兵など個人を管理する必要があります。その当時では個人の認識番号みたいなものは考えられません。無理矢理に名字が作られたはずです。その時では、平仮名・片仮名など無かった。また文字を知らない人ばかりだと思われます。書類上だけでなく本人も認識しなくてはなりません。そこで名字に、目で見てわかりやすい、画数の少ない、左右対称の漢字が選ばれたと想像します。山本・田中など。さらに二文字にして組み合わせの種類を増やしました。今ある日本的な名字の始まりになります。これらの影響が現在の西日本にささっと書ける簡単な名字が多いことに残っているように思われます。日本書紀が正しいとすれば、全国的な戸籍と考えられる庚午年籍(670)や庚寅年籍(690)が作られた時代の分布を表していると想定されます。従ってこの奈良時代の分布(高知県の分布で考える)は670年以降690年くらい、奈良時代の少し前の状態を表していると考えたい。「安田仮説」本では常陸国風土記を考えると矛盾していると述べましたが、常陸国風土記の世界、茂木雅博著、同成社では、成立が715年より前か721年以降となっていました。急速な東方への進出が行われたか、飛び地であったのか、この分布図が間違いかのどれかということになりますが、間違いではないとして論を進めていきます。
追記
北海道は明治時代に全国から(東北が多い)開拓のために人が集まりました。その影響で相関が高くなっています。奈良時代とは関係ないので注意が必要です。東京も後の時代の影響ありとして無視しています。
2013年8月27日火曜日
三関(2)
手違いで消してしまいました。復元できませんが、内容的には以下のようなものだったと思います。
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歴史の本に書いてあることですが、三関(さんげん)と い う 関 所 が あ り 、 こ れ は 越 前 の 愛 発 関 ( あ ら ち の せ き )、 美 濃 の 不 破 関 ( ふ わ の せ き )、 伊 勢 の 鈴 鹿 関 ( す ず か の せ き)を言い、この関の西側が関西ということで、図はこれ にも対応しているように見えます。奈良時代の国境になっ ていたように思います。
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歴史の本に書いてあることですが、三関(さんげん)と い う 関 所 が あ り 、 こ れ は 越 前 の 愛 発 関 ( あ ら ち の せ き )、 美 濃 の 不 破 関 ( ふ わ の せ き )、 伊 勢 の 鈴 鹿 関 ( す ず か の せ き)を言い、この関の西側が関西ということで、図はこれ にも対応しているように見えます。奈良時代の国境になっ ていたように思います。
2013年8月24日土曜日
奥州三関
手違いで消してしまいました。復元できませんが、内容的には以下のようなものだったと思います。
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歴史の本に書いてあることですが、三関(さんげん)と い う 関 所 が あ り 、 こ れ は 越 前 の 愛 発 関 ( あ ら ち の せ き )、 美 濃 の 不 破 関 ( ふ わ の せ き )、 伊 勢 の 鈴 鹿 関 ( す ず か の せ き)を言い、この関の西側が関西ということで、図はこれ にも対応しているように見えます。奈良時代の国境になっ ていたように思います。
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歴史の本に書いてあることですが、三関(さんげん)と い う 関 所 が あ り 、 こ れ は 越 前 の 愛 発 関 ( あ ら ち の せ き )、 美 濃 の 不 破 関 ( ふ わ の せ き )、 伊 勢 の 鈴 鹿 関 ( す ず か の せ き)を言い、この関の西側が関西ということで、図はこれ にも対応しているように見えます。奈良時代の国境になっ ていたように思います。
名古曽の滝となこその関
名古曽の滝というのがあります。京都市右京区嵯峨大沢町。全く目立たず、通り過ごしてしまいます。
(日本庭園鑑賞事典によれば)
嵯峨院跡大沢池庭園。
弘仁2年(811)、嵯峨天皇が、ここに池泉庭を造り、貞観18年(876)、山荘離宮をあらため、大覚寺となった。この大沢の池にそそぐ北側の流れ100mほど上っていくと、名古曽の滝跡がある。
(都名所図会によれば)
五所明神の社は大沢の西にあり。名古曽滝はその北にあり。(昔はこの地に滝殿あり。兼好が家集に見えたり)
「拾遺」滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて猶聞こえけれ 大納言
小倉百人一首(55番)藤原 公任(ふじわら の きんとう)(966-1041)
何だろうと思っていましたが、なこその関と関連があるかもしれないと思いました。
いわき市勿来関文学歴史館で「なこそ歌の世界」の展示をしていました。なこそとは来るなという意味の古代語ともいわれていて、なこその関の歌が展示されていました(H25.8.14)。
パンフレットの歌人を以下に記します。
紀貫之(866/872 ?-945)
源師賢(1035-1081)
源俊頼(1055-1129)
小野小町(生没年不詳825?-900)
大僧正頼意(?)
藤原基俊(1060-1142)
源兼昌(生没年不詳、平安中期から後期)
藤原為氏(1222-1286)
右大将道綱母(倫寧女)(936?-995)
河内(生没年不詳、1105?)
和泉式部(978-?)
従二位為子(生没年不詳、鎌倉時代後期)
源義家(1039?-1106)
慈円(1155-1225)
源頼朝(1147-1199)
宗良親王(1311-1385)
西行(1118-1190)
中務(敦慶親王女)
源信明(910-970)
昔の人の生没年というのをきちんと表すのは難しいものだと実感しました。ネットで探してきたものでうまく調べられてないので、参考データです。
紀貫之や小野小町などの人などを見ても、おおざっぱにいって、名古曽の滝となこその関は時代的に矛盾していません。
なこその関は奥州三関のひとつで、その近くには滝があるかわかりませんが、平安時代から意識されていたようで、何かしらの結びつきがあると思います。
(日本庭園鑑賞事典によれば)
嵯峨院跡大沢池庭園。
弘仁2年(811)、嵯峨天皇が、ここに池泉庭を造り、貞観18年(876)、山荘離宮をあらため、大覚寺となった。この大沢の池にそそぐ北側の流れ100mほど上っていくと、名古曽の滝跡がある。
(都名所図会によれば)
五所明神の社は大沢の西にあり。名古曽滝はその北にあり。(昔はこの地に滝殿あり。兼好が家集に見えたり)
「拾遺」滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて猶聞こえけれ 大納言
小倉百人一首(55番)藤原 公任(ふじわら の きんとう)(966-1041)
何だろうと思っていましたが、なこその関と関連があるかもしれないと思いました。
いわき市勿来関文学歴史館で「なこそ歌の世界」の展示をしていました。なこそとは来るなという意味の古代語ともいわれていて、なこその関の歌が展示されていました(H25.8.14)。
パンフレットの歌人を以下に記します。
紀貫之(866/872 ?-945)
源師賢(1035-1081)
源俊頼(1055-1129)
小野小町(生没年不詳825?-900)
大僧正頼意(?)
藤原基俊(1060-1142)
源兼昌(生没年不詳、平安中期から後期)
藤原為氏(1222-1286)
右大将道綱母(倫寧女)(936?-995)
河内(生没年不詳、1105?)
和泉式部(978-?)
従二位為子(生没年不詳、鎌倉時代後期)
源義家(1039?-1106)
慈円(1155-1225)
源頼朝(1147-1199)
宗良親王(1311-1385)
西行(1118-1190)
中務(敦慶親王女)
源信明(910-970)
昔の人の生没年というのをきちんと表すのは難しいものだと実感しました。ネットで探してきたものでうまく調べられてないので、参考データです。
紀貫之や小野小町などの人などを見ても、おおざっぱにいって、名古曽の滝となこその関は時代的に矛盾していません。
なこその関は奥州三関のひとつで、その近くには滝があるかわかりませんが、平安時代から意識されていたようで、何かしらの結びつきがあると思います。
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