なぜ東国の人たちがわざわざ九州の防衛のためにかり出されたかということです。
想像はつきましたが、詳しく知りたいと思い、図書館から
日本の文学 古典編4 万葉集三 ほるぷ出版
を借りてきました。
本の中に詳しく防人について書かれていましたが、同様のことがWikipedeaにもありました。
後の方にコピペしています。
当時のヤマトのグループは、東国への進出を図っていた時期で、捕虜的な人も数多くいたと思います。
征服した地域の人を戦いの最前線に置き、自分たちの損害を少なくすることはよくあることです。そのために関東から九州へ強制的に配置されたと思いました。万葉集に取り上げられたのは謎ですが、とにかくヤマトのグループの東限は三関にあるということは整合性があるように思います。
参考_三関(2)
防人はWikipedeaによれば、
日本の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。もとは岬守(みさきまもり)と呼ばれたが、これに唐の制度である「防人」の漢字をあてた。
とあります。
また防人の規模については
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。[6] この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
とありました。
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