山上憶良との関係で何かあるかと思いましたが、わかりませんでした。
山上と相関の高い名字に
西谷、高谷、喜多、小西、小坂、泉、新谷、吉崎、北山、今川、秋田、北、大西、橘、岡山、楠、・・・があります。
相関係数は0.60、0.59、0.57、0.53、0.53、0.52、0.52、0.51、0.50、0.49、0.49、0.47、0.46、0.46、0.46、0.46
微妙ですが、西谷、高谷など谷と相関が高いようです。
後、一文字の名字とか方角も相関が高いように思われます。
しかし山上憶良との関係はわかりません。無駄とは思いますが、アップします。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2014年5月28日水曜日
2014年5月24日土曜日
アマテラス=持統天皇?
安田仮説では安田とアマテラスの関係を言ってます。
安田が7世紀後半に発生した名字であるとも言ってます。
するとアマテラスが7世紀後半の人になってしまいます。
アマテラスをこの時代に存在させるために
持統天皇と考えるればすっきりとします。
安田が7世紀後半に発生した名字であるとも言ってます。
するとアマテラスが7世紀後半の人になってしまいます。
アマテラスをこの時代に存在させるために
持統天皇と考えるればすっきりとします。
2014年5月17日土曜日
2014年5月12日月曜日
織田信長の花押
gacco、日本中世の自由と平等のweek4で信長の花押が紹介されていました。
⑤でがらっと雰囲気が変わりますが、麒麟の麟の字をモチーフにしたとのことです。
(多分、佐藤進一著、花押を読むより)
④、⑤で右が信、左が長のように見えたのでなぞってみました。
元のデータは上記から持ってきました。それにピンクの線を入れました。
著作権などで問題あれば削除します。
⑤でがらっと雰囲気が変わりますが、麒麟の麟の字をモチーフにしたとのことです。
(多分、佐藤進一著、花押を読むより)
④、⑤で右が信、左が長のように見えたのでなぞってみました。
元のデータは上記から持ってきました。それにピンクの線を入れました。
著作権などで問題あれば削除します。
2014年5月5日月曜日
万葉集、防人歌(追加)
図書館から万葉集の本を借りてきて見ています。巻14と巻20に防人歌があるようです。
東国農民の生の声だと書いてあります。防人たちが歌を作るならわしは以前からあったらしいとも書かれています。
各地から難波に連れてこられた防人は船で筑紫に向かう、その時に集められ大伴家持が受取り、選択したものが万葉集に採用されているとのことです。この本にすべての歌が載せられているのではないので、違うかもしれませんが、農民というのは思い込みで、捕虜になった教養の高いトップクラスの人ではないかという気がしてきました。懲罰的な意味があったかもしれません。東国支配が進行中であったと考えるとすっきりとします。本は昭和62年発行で古いので現在では考え方が変わっているかもしれません。万葉集の本をちらちらと見たのは初めてです。全体を理解していないので、思いつきのレベルですが、物忘れの傾向にあるのでメモ書きとしてアップします。
東国農民の生の声だと書いてあります。防人たちが歌を作るならわしは以前からあったらしいとも書かれています。
各地から難波に連れてこられた防人は船で筑紫に向かう、その時に集められ大伴家持が受取り、選択したものが万葉集に採用されているとのことです。この本にすべての歌が載せられているのではないので、違うかもしれませんが、農民というのは思い込みで、捕虜になった教養の高いトップクラスの人ではないかという気がしてきました。懲罰的な意味があったかもしれません。東国支配が進行中であったと考えるとすっきりとします。本は昭和62年発行で古いので現在では考え方が変わっているかもしれません。万葉集の本をちらちらと見たのは初めてです。全体を理解していないので、思いつきのレベルですが、物忘れの傾向にあるのでメモ書きとしてアップします。
2014年5月3日土曜日
防人の分布
ウィキペディアの駿河国正税帳による分布図を作ってみました。
現在とは違うので、人数を分配しました。
伊豆¥静岡県 22
甲斐¥山梨県 39
相模¥神奈川県 230
安房¥千葉県 23
上総¥千葉県 223
下総¥千葉県、茨城県、埼玉県、東京都 270
常陸¥茨城県 265
静岡県 22 人
山梨県 39 人
神奈川県230 人
千葉県 313.5人 23+223+270/4
茨城県 332.5人 265+270/4
埼玉県 67.5人 270/4
東京都 67.5人
現在とは違うので、人数を分配しました。
伊豆¥静岡県 22
甲斐¥山梨県 39
相模¥神奈川県 230
安房¥千葉県 23
上総¥千葉県 223
下総¥千葉県、茨城県、埼玉県、東京都 270
常陸¥茨城県 265
静岡県 22 人
山梨県 39 人
神奈川県230 人
千葉県 313.5人 23+223+270/4
茨城県 332.5人 265+270/4
埼玉県 67.5人 270/4
東京都 67.5人
2014年5月1日木曜日
万葉集、防人歌
テレビ番組、100分で名著の4回目で防人が取り上げられていました。疑問に思ったことは、
なぜ東国の人たちがわざわざ九州の防衛のためにかり出されたかということです。
想像はつきましたが、詳しく知りたいと思い、図書館から
日本の文学 古典編4 万葉集三 ほるぷ出版
を借りてきました。
本の中に詳しく防人について書かれていましたが、同様のことがWikipedeaにもありました。
後の方にコピペしています。
当時のヤマトのグループは、東国への進出を図っていた時期で、捕虜的な人も数多くいたと思います。
征服した地域の人を戦いの最前線に置き、自分たちの損害を少なくすることはよくあることです。そのために関東から九州へ強制的に配置されたと思いました。万葉集に取り上げられたのは謎ですが、とにかくヤマトのグループの東限は三関にあるということは整合性があるように思います。
参考_三関(2)
防人はWikipedeaによれば、
日本の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。もとは岬守(みさきまもり)と呼ばれたが、これに唐の制度である「防人」の漢字をあてた。
とあります。
また防人の規模については
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。[6] この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
とありました。
なぜ東国の人たちがわざわざ九州の防衛のためにかり出されたかということです。
想像はつきましたが、詳しく知りたいと思い、図書館から
日本の文学 古典編4 万葉集三 ほるぷ出版
を借りてきました。
本の中に詳しく防人について書かれていましたが、同様のことがWikipedeaにもありました。
後の方にコピペしています。
当時のヤマトのグループは、東国への進出を図っていた時期で、捕虜的な人も数多くいたと思います。
征服した地域の人を戦いの最前線に置き、自分たちの損害を少なくすることはよくあることです。そのために関東から九州へ強制的に配置されたと思いました。万葉集に取り上げられたのは謎ですが、とにかくヤマトのグループの東限は三関にあるということは整合性があるように思います。
参考_三関(2)
防人はWikipedeaによれば、
日本の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。もとは岬守(みさきまもり)と呼ばれたが、これに唐の制度である「防人」の漢字をあてた。
とあります。
また防人の規模については
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。[6] この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
とありました。
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