京阪電車で樟葉駅を通りました。窓から見ていると平坦な地域です。楠葉村と船橋村が合併して樟葉村となったようです(ウィキペデア)。楠葉とはクスノキの葉っぱということです。どいうことだろうと思っていましたが、平城京造営秋篠川埋め立ての地盤補強跡を発見
www.sankei.com/west/news/140704/wst1407040012-n1.html
の記事がありました。敷葉工法という木の枝葉を敷いて地盤を固める古代工法が使われたとのことです。楠葉の地域も水はけの悪い地域らしく、クスノキの葉を敷き詰めて地盤の改良をしていて、その場所を楠葉と呼ばれたのではと思いました。これが正しければ、継体天皇(存在したとして)の時代も下がるかもしれませんが、証拠はありません。
安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2015年6月30日火曜日
2015年6月9日火曜日
四天王寺
難波宮と関係がありそうですがわかりません。しかしこの四天王寺に聖徳太子が四箇院を建てられたのが日本での最初とする伝承があります。光明皇后が東大寺に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「 悲田院」「敬田院」)を作ったという話があります。四天王寺に光明皇后の気配を感じました。
後期難波宮が聖武天皇の時といわれており、四天王寺が光明皇后につながるなら後期難波宮の範囲とも考えられます。また聖徳太子伝説が聖武天皇の時代に出来たのかもしれません。
後期難波宮が前期難波宮を尊重しており、四天王寺も古い一直線の配置を残しているのも共通の意識があったようにも思います。
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