2015年6月30日火曜日

楠葉(くずは)

 京阪電車で樟葉駅を通りました。窓から見ていると平坦な地域です。楠葉村と船橋村が合併して樟葉村となったようです(ウィキペデア)。楠葉とはクスノキの葉っぱということです。どいうことだろうと思っていましたが、平城京造営秋篠川埋め立ての地盤補強跡を発見
www.sankei.com/west/news/140704/wst1407040012-n1.html
の記事がありました。敷葉工法という木の枝葉を敷いて地盤を固める古代工法が使われたとのことです。楠葉の地域も水はけの悪い地域らしく、クスノキの葉を敷き詰めて地盤の改良をしていて、その場所を楠葉と呼ばれたのではと思いました。これが正しければ、継体天皇(存在したとして)の時代も下がるかもしれませんが、証拠はありません。

2015年6月9日火曜日

四天王寺



伽藍は四天王寺式と呼ばれる中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む形式とのことです。建物は再建されたものであるが、配置形式は百済からもたらされた古い形式のものと考えられています。古墳時代の前方後円墳が外国使節に海側から見て目立つ配置にあるのと同様に四天王寺も南北の配置が採用されたことがあるのかもしれません。実際に南大門の方から北を向いても見通しは悪いです。写真は右が北です。


 難波宮と関係がありそうですがわかりません。しかしこの四天王寺に聖徳太子が四箇院を建てられたのが日本での最初とする伝承があります。光明皇后が東大寺に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「 悲田院」「敬田院」)を作ったという話があります。四天王寺に光明皇后の気配を感じました。
 後期難波宮が聖武天皇の時といわれており、四天王寺が光明皇后につながるなら後期難波宮の範囲とも考えられます。また聖徳太子伝説が聖武天皇の時代に出来たのかもしれません。
後期難波宮が前期難波宮を尊重しており、四天王寺も古い一直線の配置を残しているのも共通の意識があったようにも思います。