2016年9月27日火曜日

やすんば

 奈良県北東部、元は都祁村というところ、今は奈良市に編入された地域に、雄神神社と国津神社(都祁白石)の間の水田の中にやすんばと呼ばれる樹叢(藪のようなものの意味?)があります。


写真は雄神神社側から、国津神社を見ています。矢印がやすんばで、少し低地にあります。4カ所あるそうですが、1カ所見落としました。


 神様が雄神神社から国津神社に訪れるときに休まれる場所としてシンボリックに示したもののようです。「やすんばについて、神が訪れる道」など。
 野々神岳から国津神社までの経路で神社間を具体的に示すことが、水田で収穫を増やすよりも地域で重要視されていたわけで、信仰からか神社なども古来よりきちんと管理されています。私は「やすんば」が水田開発の当初に作られたと想像します。
 実際に歩いてわかることですが、神社からはどちらも下り坂で。棚田のようになっています。ここからは妄想ですが、このやすんば付近はもともと池か川かの低湿地ではなかったかという気がします。排水工事をして、水田を造成し、その中で少し出っ張ったところで良さそうな所をやすんばとした可能性はあると思います。単純に考えると、山の中の木を伐採し整地して田んぼを作るより、池などの水を抜いた方が容易です。また国津神社の名前ですが、津とは昔には港を意味します。池か川が近くにあったことを想像させます。近くには国津神社がほかにもあり、高台のような所にあるようです。それと雄神神社は「三輪さんの奥の院」ともいわれ、社殿は無く、山がご神体となっていて、古い時代の神社であることを示しています。これらからカンピュータでは「やすんば」は7世紀以前の話に思えます。
 こんな土木工事ができたのかということですが、万葉集に
「大君は 神にしませば 水鳥の
 すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつ」
の歌があるので、すでにそこそこの開発工事は可能であったはずです。
 ある程度の高地の方が排水の面で稲作の地域を容易に拡大することができたことから、この地域が発展していったと考えられ、また奈良県全体ももともと湿地帯であって、排水工事が容易であることから新田開発が容易であり、食料生産も拡大し、その結果人口も増え発展していった可能性があります。どうして奈良県のような内地に大きな古墳とかできたのか不明でしたが、なんとなくわかった雰囲気になってきました。
やすんばの写真をもう一枚。庭園の中島のようになっています。

訂正:H28.10.08
国津神社はもともとこの地にあった名前ではなく、近くの国津神社との関係を示したいとしての名前のようです。10世紀ごろの話で、取り消し線のところは間違いです。妄想であって、恥ずかしいですが残しておきます。