2018年4月30日月曜日

広島県の安田

今回は、角川日本地名大辞典を見ています。
・安田<三次市吉舎町《みよししきさちょう》>
 駅では備後安田駅があります。三次盆地の東南、馬洗川支流の上下川を隔てていて、区別するため、三谿《みたに》安田とも言った。対岸の方は、向安田・甲奴《こうぬ》安田・上安田と区別したようです。村名としては、室町期から戦国期に見える。奥尾城跡があり、中世の山城で、この地方の山城としては余り大きくない。城主は安田氏という。吉舎の地名ですが、吉舎町の説明に、日本書紀の敏達天皇六年(五七七)に私部《きさべ》を置くというのが、それが皇后のため設けられた部であり、これに由来するという。
とあります。
 また甲奴町の説明にも、上安田の西福寺近辺から平安末期のものかと思われる布目の唐草文軒平瓦が出土しているとあります。関係はわかりませんが。


・安田<世羅郡世羅町>
戸張川とその支流域。記録では、安田は鎌倉~南北朝期に見える郷名とあります。それ以前は不明ですが、世羅町には古墳遺跡などがあり、まったく無関係とは言えないと思います。中安田に安田城(正国城)跡があると書いてます。


・安田<神石郡神石高原町>
 地名辞典では油木町安田となっていました。油木町の説明では、律令制下では当町域の郷名は詳らかではないとのことです。


・保田<庄原市東城町>
 やすだと読みます。江戸期~明治二二年の村名では安田村とのこと。村内の川は権現峠を分水嶺とし、高梁川水系と江の川水系に分かれ、瀬戸内海と日本海に流出する。とあります。雲がかかって見にくかったので地図表示にしています。


 安田は条里制と考えていましたが、少し自信がなくなってきました。広島県の安田の場所は山の中にあり、それほどの広い平坦地とは考えられません。条里制を展開するには不適な土地のように思われます。しかもたくさんあるので、偶然に安田があったとは考えられません。石見銀山街道とかありますが、これは江戸時代のことのようで、関係ないようです。出雲のあった日本海側と連絡するところに位置していることは確かですが、それほどの必要性があったのだろうかと思います。江戸時代の六の原製鉄場跡が、庄原市西城町柚木というところにあるようです。律令制の時代にも鉄の開発が行われ、バックヤード的に食料の生産が近くで行われ、それが安田の地名に残ったのかと思ったりもします。なぜ、この地域に安田があるのか、今後の課題としておきます。

2018年4月28日土曜日

兵庫県の安田

兵庫県の地名Ⅱ、日本歴史地名大系29Ⅱを見ています。

姫路市安田一-四丁目
 船場川の東、三左右衛門堀(外堀川)の間。近世の町名、姫路藩領。古い時代のことは書かれてませんが、南側に三宅というところがあり、ここの説明に、
飾東郡に所属、野田川上流右岸の平坦な沖積平野上に位置し、村内の一部は町場化して三宅町になっている。「播磨国風土記」餝磨郡の条の末尾に「餝磨の屯倉」が見える。同書によると、仁徳天皇の世に意伎《おき》・出雲・因幡・但馬の国造が召喚された際、お召しの使いを水手として京に向かったため罪を得たが、播磨国へ退去して贖罪のために水田を造成し、そこで作った稲を収納する御宅を飾磨の御宅と名付けたという。現姫路市飾磨区三宅が遺称地とされる。
とあります。仁徳天皇の時代というのは問題ですが、条里制の水田が作られた所が安田で、採れた稲を近くの屯倉に収めたとすれば、辻褄があってきます。


多可町中区中安田
 安田郷があったとされる地域、安田は東安田・中安田・西安田と分かれている。多可郡の説明では中区の多可寺廃寺は七世紀後半の建立で巨大な塔心礎が遺存し、平安初期まで続いた寺院で、郡の仏教文化の中心であった。地図では安田川が流れています。安田の記録は、源平の合戦のころで、吾妻鏡文治二年(一一八六)六月九日条に梶原景時が安田庄を領家若狭局から預かったと称して横領していることがあげられ、後白河法皇がこれを糾弾していると書かれています。安田に関する古い史料は無さそうです。


安田村、加古川市尾上町安田
 以前の投稿記事がありますが、角川日本地名大辞典28を少し引用しておきます。
加古川下流左岸に位置し、中央部を別府《べふ》川が流れている。また、播磨の古刹刀田山鶴林寺の追儺式で鬼役を勤めた鬼吉太夫は安田家の者と謡曲「安田吉道」にあるが、地名と関係あるか不明である。・・・
平凡社の方に、天文三年(一五三四)の鶴林寺文書に安田・東安田・中安田・西安田に鶴林寺散田の作人が見える。
とあります。東西がつくなど、多可町と似ています。


篠山市安田
 篠山盆地の東部、籾井川下流域、地名はこの付近で最も耕作しやすいところであることによる(多紀郷土史考)。城山は別名白尾山とも称し、中世籾井氏が拠った城跡がある。安田はこの城の大手口であったという。(角川の方)
 安田の北東にある山に籾井城があったようです。


安田園《やすだのその》・柏原庄 丹波市
 この安田園の成立は平安時代で、条里制とは関係ないようです。
現柏原町の市街地一帯にあった山城石清水八幡宮の所領。平安時代は安田園と呼ばれていた。成立の経緯は延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に示されている。八万大菩薩を安置したにもかかわらず、旧司と寄人が他行し、相伝荘厳する人がなかったため旱魃・病患が絶えなかった.治安三年(一〇二三)八幡大菩薩をないがしろにしたためであるという託宣があり、神殿を建て大切に祀ったところ五穀成熟、郷土安穏となったという。そこで国司が長元八年(一〇三五)作田一〇町と寄人二〇人の臨時雑役を奉免し安田園が成立した。・・・柏原神社を中心に市街地と」その周辺地域に及ぶと推定される。その後、柏原庄となったとのことです。安穏の田ということで安田の名になったとの解釈のようです。この頃には安田の意味がわからなくなってきており、一生懸命にその意味を考えていたような気もします。
 安田園は不明なので、柏原太神宮の場所を見ています。


 兵庫県は安田の地名が多く残っているところでした。しかも海辺や内陸部などあちこちにあります。何となく同時期に開発されていったように思えます。その時代が七世紀後半といって良いのか、仁徳天皇を実際は孝徳天皇と解釈できるのか、興味ある場所ではあります。

(注)鶴林寺
開山は上宮聖徳太子
縁起は、刀田山と号し、古来「刀田の太子様」「播磨の法隆寺」と呼ばれ今日に至る。寺伝によると聖徳太子16歳の時、(589?)、高麗僧の恵便法師が、物部守屋の難から逃れて、当地に隠棲した際、太子が来臨して教えを乞い、秦川勝に下命して一宇を建立しそこに釈迦三尊.四天王を祀り、「四天王聖霊院」と称したのが始まりという。
この部分は、聖徳太子が建国神話なので、伝説的な話と考えられます。
その後、養老二年(718)武蔵国太守大目身ひと部春則が、七堂伽藍を建立、寺領二万五千石を有し、三百坊を擁した。この時寺号を「刀田山四天王寺」とした。
と社寺縁起伝説辞典、戎光祥出版にありました。8世紀の成立がもっともらしく、それ以前に条里制の田が成立したと考えて、整合性があります。

2018年4月26日木曜日

なぜ、三内丸山遺跡のそばに安田の地名があるのか

 前投稿で、安田=条里制としましたが、言い過ぎでした。
 安田仮説では、安田の名前が岐阜県に多いのはなぜかということから始まっています。これは百済滅亡により、難民が岐阜県にやってきて、そこで条里制の田を開発したことで、そこから安田=条里制となったという仮説です。従って、天智五年(六六六年)以降の話です。条里制が岐阜から始まったのではなくて、すでに条里制はあり、最初の名称は不明ですが、安田となったのは岐阜県での開発以降のことです。
 近畿地方に安田の地名が検索であまり出てこないのも、条里制がすでに施行されていたことが理由になるかもしれません。実際に、安田が用いられるのは七世紀末ぐらいと想定されます。日本書紀では、持統天皇からイメージしたアマテラスの持つ良き田のトップに安田が出てきます。条里制の田を広めるのが当時の国家目標であり、神話の中に取り入れられたと考えられます。日本書紀は八世紀前半の成立ですからこの頃には安田=条里制が確定していたと思われます。

 さて、遺跡のそばに安田ですが、なぜ地名としてつけられたのかということです。それも郡名とかでなく字《あざ》の名としてです。字というものを理解してはいませんが集落的な単位であろうと思います。日本人の名前に「田」のつくものが多いといわれます。これは日本に田が多いからだということですが、大雑把すぎると思います。田の区別をするために、集落を区別する字《あざ》の名的につけられたものが名字につながっていくのだと思います。安田もこの一つだと考えられますが、何らかのその土地の由来による「安」があった所なので安田としたのではなく、中央の勢力が条里制ということを理解してその土地に安田をつけたと考えます。
 三内丸山遺跡も縄文時代から続く栄えたところなのだと思います。その地域に進出してきた律令制度を信奉する勢力が、侵略的か友好的かはわかりませんが、とりあえず、近くに条里制のモデルプラントかパイロットプラントのようなものを作り、そこを安田としたのではと思います。各地域に進出したときにまず最初に作った条里制を安田と呼んだように想像されます。
 阿倍比羅夫や坂上田村麻呂などの蝦夷征伐も兵站の確保とかあるので、大量の人員の移動は古代にあっては難しく、各地に拠点を作っていかないと難しいと思います。登山でいうところのベースキャンプみたいなものを作り、前進基地を進めていくやり方であって、そのような拠点に安田があったのかもしれません。これも想像です。

2018年4月25日水曜日

大阪府の安田

大阪市鶴見区安田
 角川日本地名大辞典27大阪府によれば、
古川左岸の自然堤防州に位置する。旧大和川南岸の若江郡安田村の豪族・百姓が中世に水損を避けるため、当地に移住したと伝えられる。地名は旧地名にちなむ。
とあります。
 日本歴史地名大系28大阪府の地名Ⅱの河内国若江郡の項を見れば、
この地域は大和川の形成した沖積平野で、北部の深野池・新開池などの沼沢地を除いて水稲耕作に適し、多くの弥生時代遺構が発見されている。・・・
当郡域の特色は、古代の河内と大和を結ぶ動脈ともいうべき大和川が貫流していることである。その本流長瀬川はしばしば決壊して水害をも起こしたが、この川の形成する自然堤防は古くから陸路として利用された。・・・
若江郡の条里については、前引承平七年の信貴山寺資材帳写に三条竹村里が見えるのをはじめ、文献より条里制の施行されたことが確認される。
とあります。
 安田の地名も条里制のあった地域から移転してきたものと考えられます。
(安田というところがどこにあったかは不明ですが、間違いないと思います。)
 今回は地図省略。

2018年4月24日火曜日

長野県の安田

 飯山市の木島地区にある安田村があった。現在は長野県飯山市木島安田。
木島平と中野村とを限る丘陵が千曲川に迫る所、千曲川によって形成された自然堤防に接した集落。中世には戦略上の要害地で、安田の初見は明徳三年(一三九二)三月の書状にあるとのことです(日本歴史地名体系20長野県の地名、安田村の項)。条里制に関しては記述がありません。安田村は上新田村、山根村と合併して木島村となり、最終的には飯山市に編入されています。何ら古代につながるものはありませんが、飯山市のところを見ると、東山道・北陸道を結ぶ道筋にあたるため、古代の飯山地方は信濃への一つの入口として北陸道筋の影響を受けたと推定されるとあります。角川の日本地名大辞典20の長野県には飯山市の説明に、奥信濃の要衝とあります。東山道と北陸道の古道が通っていた当市域は、古代交通上の要地であるとともに、蝦夷対策の支援基地として役割を担っていたとも考えられる(飯山町史)。とありました。東の木島平村の根塚遺跡から朝鮮半島南部で製作されたと考えられる三本の鉄剣が出土したとのことです(長野県の歴史散歩20,山川出版社)。安田の地名が条里制のあったところを示し、唐突に中世に現れたものではないと思われます。どうして、このようなところに安田の地名があったのか、考えにくいですが、大和の律令制を推進する勢力にとって、この地域が重要なところで、古代より続く地域を戦略拠点としたように思えます。
 地図で拡大しても、残念ながら安田の地名は出てきません。チェックマークの東側の整然としたところは区画整理で、条里制ではないようです。


2018年4月23日月曜日

富山県の安田

①安田村、滑川市
 滑川市《なめりかわし》は、富山県の北東部、市域の平野部は早月川、上市川によって形成された複合的な新扇状地で、穀倉尾地帯新川平野の中核をなしているところです。
安田村 早月川が形成した旧扇状地(台地)と新扇状地(平野)の境界付近に位置する。江戸期から明治二二年までの村名、現在は滑川市の大字名。安田新村というところもあったが、現在の安田に合併とあります。安田古宮遺で縄文前期末葉の集落遺跡があったという。特に記録的なものはないが、安田村から山の方の本江村《ほんごうむら》には、縄文時代の本江遺跡、九世紀前半の万年寺谷遺跡があるとのことだが、関係あるかはわかりません。

②安田村 
 江戸期~明治二二年までの村名、その後、現在の字名、はじめ朝日村、その後、婦中町、現在は富山市婦中町安田。地名辞典では江戸期の話が書かれている。ここには、安田城跡があり、井田川のほとりに開かれた中世の平城。川の名が井田で、これは文字の形通り、条里制の田んぼの意味で、近くに下条というところもあり、条里制の存在した場所であるかもしれません。


安田町
 富山県庁から500mほどのところにあります。②とは別の所。ここは、安田財閥の基礎を築いた安田善次郎の生地で、それを記念して安田公園が設置され、一画の町名も安田町になった。とのことです。条里制とは関係ないところです。

2018年4月21日土曜日

新潟県の安田

平凡社、新潟県の地名、日本歴史地名大系15
には安田の地名が二カ所あるようです。
①安田町というのがあり、阿賀野川の右岸にあって、明治時代には安田村であったのが、合併などで昭和三三年に町となったとのこと。現在は合併し、阿賀野市。地図で見ると旧安田町の標記があるが、横に保田というところがあります。
上記の本の保田町《やすだまち》の項には、
古くは安田と記したが、貞享二年(一六八五)に保田に改められた(正徳二年「村鑑帳」安田家文書)。安田ダシ(阿賀野川の峡谷から吹く南東風)による大火が多かったためという。中世は白河庄地頭大見氏、次いでその子孫の安田氏の支配下にあった。文久九年(一二七二)八月二五日の鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文(大見安田氏文書)に、「白河庄上条内安田条」とみえ、同七年一〇月二一日に大見時実より子の平若鶴丸(頼資)へ譲られた安田条地頭職が安堵されている。・・・
安田→保田 とのことであろう。読みが同じで漢字を変えています。
その後に、安田城の説明があります。紙の地図ではわかりませんが、安田中の北、安田支所の東側のところにあります。
安田城跡
中世に当地を支配した安田氏の居城で、県指定史跡。町役場裏の小丘、字城ノ内にあり、本丸と二ノ丸の一部が現存する。安田氏は、鎌倉初期に白河庄安田条を与えられた大見時実の子孫で、ここを本拠に南北朝期以降安田氏を称した。とあります。
安田の地名がある北蒲原郡の項を見ると、縄文時代の後期の遺跡があることや、安田町の六野瀬遺跡は弥生時代中期の再葬墓を中心とした共同墓地とかの記述があり、弥生時代から引き続いて条里制の田が開発されていった可能性もあります。
地図ではチェックマークは安田支所のところ。


②安田村 柏崎市安田
鯖石川《さばいし》両岸に迫る丘陵のうち、西丘陵が消え、下流氾濫地帯の入口に当たる西岸の村。文明一八年(一四八六)道興准后の「廻国雑記」に「やすだ、山むろ、みをけ」と記され、柏崎から鯖石川沿いに遡上して三国街道へ結ばれる。鵜川庄安田条の遺称地。暦応四年(一三四一)四月一三日の上杉朝定寄進状によると、丹波国光福寺(現京都府綾部市安国寺)へ「越後国鵜川庄安田条上方」が寄進されている。しかし当地には毛利安田氏が地頭と称して居住しており、光福寺の領有には至らなかった。・・・
とあります。
ここにも安田城跡があり、毛利安田氏の居城とあります。



昔に安田の地名のところ
③安田 見附市
信濃川支流刈谷田川下流右岸に位置する。明治二二年~大正一二年の大字名。
はじめ下関村。明治三四年からは坂井村の大字。安田興野とも称した。大正一二年下関となる。前の二つは少し内陸部の山際ですが、ここは平野の中央部です。それでも海岸沿いでないということでは共通しています。




 新潟県ですが、安田の名字が少ないことで、安田には関係ないところと考えていましたが、間違いであることがわかりました。確かに潟の地方ですが、海辺では無く、山の方に入れば、十分に条里制の水田を開発することができたように思えます。山に近いところでは傾斜があり、用水も簡単で、初期の水田開発には有利な場所であり、奥の方から海の方へ順番に開発が進んでいったものと考えられます。初期の段階の条里制と安田が結びついていたような気がします。新潟県に安田の名字が少ないのも、安田城跡などがあるように、水田開発で首長的な役割を持つ人が出てきて、その結果、殿様の安田の名前を使うのがはばかられて、少なくなったのかもしれません。安田→保田とか。また近くに条のつく、条里制に関係した地名も見受けられます。「安田=条里制」は間違いないと思います。

2018年4月20日金曜日

福島県の安田

 大沼郡会津美里町安田にあるが、以前は会津高田町であったところ。
ここは高田村が元となり、昭和三〇年には会津高田町となっている。
古くから陸奥国二宮・会津総鎮守として崇敬されてきた伊佐須美神社があり、御田植祭の催馬楽に「高い田や低い田や植うるたからのたのしき」とあることから、一段高い所になっているための地名とある。(日本歴史地名大系第7巻 福島県の地名、平凡社より)
 催馬楽《さいばら》は雅楽とのことで。平安時代に始まり、室町時代には途絶したもののようです。
さて安田村ですが、上記の本では、
宮川(鵜沼川)下流左岸、氷玉川との合流点近くにあり、東対岸は会津郡大島村(現北会津村)、北は佐布川村、西と南は高田村に続く。土地は肥沃だが、度々水害を受けている。・・・明治八年、佐布川村と合併して田川村となる。・・・伊佐須美神社の催馬楽の六段に、「広い田や安い田や植うるところのたのしき」とあるのが村名の起こりともいわれる。
とあります。
 私のひがみ根性ですが、催馬楽の流行した時代にすでに安田が安い田の認識で、それならば高い田の方が良いと思われていたようで、貨幣経済の進展と共に、安田から条里制の意味が消えていって、高い・安いの意味みとらえられたのではないかと思われます。
地名・名字が、安いということが嫌われ、安田→高田となっていった可能性はあると思います。
 チェックマークが安田の場所、南側に会津美里町の役場がありますが、その南の文殊東の下方の緑のところが伊佐須美神社です。

2018年4月17日火曜日

山形県の安田

 日本歴史地名大系第6巻山形県の地名よれば、「酒田市安田」というところがあります。
 現在の安田に関連する地名は、上安田村、下安田村、安田興屋村、地蔵寺村の合体したものですが、内陸部の生石《おいし》地区には条里制の遺跡があるようであるものの、安田の地域には無さそうでみえます。
上安田村の項に、地内を郷野目堰《ごうのめ》が北東から南西に流れる。長享三年(1489)書写の一条八幡宮祭礼日記(市条八幡神社文書)に当地の安田殿が至徳元年(一三八四)堰を掘削したとある。
 安田殿がどういう人のか不明であるが、律令制の時代とはほど遠いもので、この地が条里制の場所であることから地名となったとは言えないようです。
 しかし、上記の本の総論によれば、山形県は高山に囲まれた山の県とのことで、大化以降、出羽の地は律令国家に組み込まれるのが遅れ、大化以前の寺院跡は未発見である。とのことです(この本の発行日は一九九〇年二月二六日初版第一刷となっている)。山形盆地や米沢盆地などが蝦夷の勢力範囲にあれば、日本海側から容易に侵入出来そうには無いように思われ、安田の地名が日本海沿岸の酒田市に留まったのも状況証拠的には合ってはいます。これだけでこじつけるのはどうかと思われる、かなり妄想的な話ではあります。いつも古い時代と安田がつながるものでは無いということです。
チェックマークが酒田市安田。田園地帯の中にあります。


2018年4月16日月曜日

秋田県の安田

 横手市にあります。

やすだ 安田<横手市>
横手盆地の東端、横手側渓口部西南方1.5kmの山麓部に位置する館平《たてひら》(現在小字名残らず)には源義家に大豆を貢いだ藤原季武の居館という館跡があり、小字馬場はその馬場跡ともいう(雪の出羽路)。中央部を羽州街道が縦断。
[近世]安田村 江戸期~明治二二年の村名。出羽国平賀郡のうち。秋田藩領。「正保国絵図」には安田新田二七六石、・・、新田の字をとり安田村、その後に六か村と連合して明治二二年には平賀村の大字となる。
[近代]安田 明治二二年から現在の大字名、はじめ栄村、昭和二六年からは横手市の大字となる。

 新田ということで古い歴史は無さそうであるが、横手のところを見ると

横手川右岸の山麓には、縄文前期の遺物から令制期の土師器・須恵器まで出土する地点が存在し、横手川左岸の平野部には、条里制とみられる遺構が展開していた。熊野神社や正平寺などに関連して、古代以来の説話も多い。

・・とあります。安田という地域を地図で見ると横手川に直接には接していないが、横手川の蛇行が大きく、関係あったかもしれません。
 地図で見ると、奥羽本線横手駅の西に条里遺跡広場があり、駅前一丁目、二丁目の南が安田というところです。距離にして1km弱です。「駅前」の地名も安田の地域に囲まれている地域のようにも思え、鉄道が出来て、後から変化したようにも見えますが、違うようです。
 ヤフー地図で見ると遺跡広場が見つかりません。しかし条里というところがあります。このあたりがもともとの条里制のあったところかもしれません。チェックマークが安田の所で、条里とは少し離れていますが、関係ないとはいえないと思います。


2018年4月14日土曜日

三内丸山遺跡と安田の地名

 安田の名字を考えてきましたが、安田という地名も各地にあります。途中で挫折するかもしれませんがまとめていきたいと思います。
 今回は、特別史跡三内丸山(さんないまるやま)遺跡の近くに安田という地名のところがあります。三内丸山は日本最大級の縄文集落跡です。

角川日本地名大辞典からの引用です。
やすた 安田(青森市)
青森平野の中央西部に位置し、西側は大釈迦丘陵の東端にかかる。昭和四八年から同五二年にかけて、近野遺跡(字近野)の発掘調査が実施され、縄文早期~後期から平安期の集落遺跡と確認した。沖館川と三内川合流点の南に広がる標高約20mの低台地にあり、縦穴住居跡・小竪穴などの遺構を検出したほか、多数の各種遺物の出土をみた。縄文中期後半・後期初葉の土器・土製品・石器・石製品で、なかでも土偶は一〇八点にのぼった。中期の竪穴住居跡には長径19.5m、短径7mの長円形の大型もあった。平安期の竪穴住居跡からは土師器・須恵器をはじめ、鋤先・刀子などの鉄製品、木製櫛も出土した。近野遺跡の大半は、現在県立総合運動公園となる。
[近世]安田村 江戸期~明治二二年の村名。津軽郡田舎庄のうち、弘前藩領
[近代]安田 明治二二年~現在の大字名。はじめ大野村

 この地域は、平安時代に条里制の水田が開発され、その時に安田の地名がついたことが考えられます。縄文時代から開けたところに(その近くに)、新たに新方式の水田が開発された可能性があると思います。侵略的に開発されたか、自発的かはわかりませんが、縄文時代から平安期まで継続的に発展していったと思われます。運動公園になって、田の痕跡は残っていないかもしれませんが、平安時代の名残が安田の地名にあると想像します。
 もう一つ青森県には安田だったところがありました。

今は浅井 あさい(五所川原市)
津軽平野北部、岩木川支流十川右岸の平坦地に位置する。
[近世]浅井村 江戸期~明治二二年の村名、津軽郡田舎庄のうち、弘前藩領。当村は宝永元年、開拓された俵元新田八か村のうちの一村。はじめ安田村と称したが、享保一一年に浅井村と改称。

 新田開発が江戸時代なので、条里制から安田がでてきたとはおもわれません、前述の安田村と同じ津軽郡田舎庄なので、誰かが名前を持って移ってきたかもしれません。

 ついでですが、田舎庄の田舎は「いなか」と読むようです。「夷中」ということで蝦夷などの領域の中にこの地域を開発したからとの説もあるようです。

  地図をリンクしました。右下の総合運動公園のあたりが安田の地域です。




2018年4月8日日曜日

待庵での軸線

 国宝の待庵です。写真集のにじり口の写真を見てあっと驚きました。
妙喜庵茶室(待庵)、不滅の建築9とかの写真集があります。ほかの写真集とかでもあります。
写真をそのままではよくないと思い、元の写真を薄くして、位置関係を示しています。



にじり口が壁側で、奥の掛け軸のある床の間も壁側です。
しかしにじり口は、幅72cm、床の幅は116cmです。幅が違うので、それぞれの中心軸がずれます。
58-36=22cm、中心軸は約20cmほど床が左にずれています。
というか、おそらく意識してずらしていると思います。
(待庵の寸法については、日本建築史基礎資料集成の図面を見ました。)
 私には、神社での中心軸のずれの意識が茶室に取り入れられているように思われました。
お茶はよくわかりませんでしたが、千利休はお茶の宗教化を考え、
お寺や神社にあるものがいろいろとお茶に取り入れられているように感じます。
お茶の露地の庭では、手水鉢・石灯籠などがあるのも、私には納得できるようになりました。
 

2018年4月7日土曜日

観心寺、鎮守堂(訶梨帝母天堂)

 観心寺は大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。
鎮守堂は一間社春日造、鳥の彫り物が気に入りました。
きらびやかなものだったろうと思います。




 最近は軸線がずれているのが気になります。
手前の拝殿側から奥の方の鎮守堂を見ています。ずれています。

2018年4月6日金曜日

観心寺の手水舎

 観心寺は神仏習合が残っている雰囲気のところです。
おそらく江戸時代にはこういうところが多かったのかもしれません。
よく考えれば、江戸時代に、手を合わせたり、「二拝二拍手一礼」とかを
切り替えていたとは思えません。明治時代の国家神道の変化がそのまま古い時代から続いていたように感じていただけかもしれません。
さて手水舎です。参詣者が手や口を漱ぎ清めるところです。
何か文字が刻まれていますが、よくわかりません。解読しようとしましたが限界でした。
水で清めるのは仏の教えであるというような意味だとは思います。


當願 衆生 得清
灌水 ?? 佛法
寛文十-十月二日
施主堺湯屋町
(土・中・十?)屋?一郎

 国宝の金堂が、寛文年間に修理されているようなので、その時のものだろうとは想像されます。
堺の商人らしき人の名前があります。一郎と読めるか確信は持てませんが、一族郎党の意味での一郎だと思います。