2018年12月29日土曜日

火とfire

 国名で肥前とか肥後の国がもともと「火」の国だったとのことで、英語ではfireであることを思い出しました。「i」はアイですが、フィと読めなくはありません。「火」の「ひ」も「ふぃ」であったかも知れないと考えると、英語と日本語が共通の言葉でふぃがあったかもしれません。アフリカ大陸で生まれた人類が中近東で分かれて世界に広がるときに、火を使っていたことが考えられます。多分そのころは火が重要なものであったと思われます。人類の共通的なことばとしてあったとして不思議ではありません。火がああるなら水はどうだということになります。英語ではwaterです。水とのつながりはまったく無さそうですが、日本では「わたのはら」は海原です。伝言ゲームで海になってしまったようです。「古事記の真実」にはミトラ・ヴァルナ神の働きは「水の神」である(同書一三七頁)でmito→midu→mizuかもしれません。かなりな無理筋ですが。みそぎの「み」の方が可能性はあるかもしれません。インド神話では火の神はアグニというそうです。これも英語ではアークに相当するのかもしれません。アーク溶接のアークです。火といっても、flameとか炎(ほのお)とかあるので、いくつも時代によって複数の言葉があるようには思います。
 梵字で入ってきた言葉が仏教関係であるので、仏教が日本に入ってきたときに、寺院建築も同時に入ってきたはずです。瓦のカッパラからのきたとしての発想です。「日本建築様式史、美術出版社」によれば、日本で初めての本格的な寺院は飛鳥寺である。用明二年(587)、蘇我氏は仏教受容をめぐる物部氏との戦に際して寺院の建設を発願し、勝利後に本格的な寺院を計画した。翌年に、百済から仏舎利とともに僧・寺工・露盤博士・瓦博士・画工とともに寺院経営に必要な人々が派遣され、約20年後に寺院は竣工した。ということでどこまで本当かはわかりませんが、いろいろな専門の人がやってきて、言葉も持ち込んだのは確実です。この時に建築での重要な構造物である「はしら」ということばが導入されたと創造して関連する英語と共通する言葉を考えてみました。柱を英語ではcolumnで関係なさそうでした。しかしpostには柱の意味があり、子音ではpstですが、p→h、sはそのまま、t→フラップTでr化とすればhsrで柱になると思われます。しかし、語源由来辞典で見ると
「あるところに置く」「配置する」「立てる」といった意味のラテン語「ponere」の過去分詞男性形が、フランス語「poste」を経て16世紀に英語化し、女性形になって「郵便」の「post」になった。
とあります。これでは英語と関係はありません。国語辞典を見ていると、柱は、天井と床をつなぐ部分なのでつなぐという意味では、橋と関係あるかもしれません。端をつなぐのが橋なので、こちらが同語源かも知れません。古事記では神様も柱と考えるのは、寺院建築で柱に重要な構造物としての意識を持ったことから表現された可能性はあります。
 瓦で「かわら」は訓読みのように思われます。もともとの日本語が訓読みと思っていましたが、中国由来のものが音読みで、それ以外のもの(梵字由来のものとか)が訓読みだろうという気がしています。

2018年12月24日月曜日

古事記の稗田阿礼はインド人か?

 最近、年賀はがきの季節で、年賀状を準備している人も多いと思います。はがきですが、漢字では葉書で、もともとは文字を葉っぱに書いたことから起こったといわれます。昔にインドでは葉に文字を記し、中国では紙に書いたので、中国を介して葉書が日本に伝わったように考えられているようです。言葉というのも、言語と葉っぱの密接な関係を示しているようです。私は直接にインドから日本に伝わってきた可能性があると思っています。
 梵字に関心を持っていて、ひょんな事から、「古事記の真実、神代編の梵語解、二宮陸雄著、愛育社発行」の本を借りてきて読み始めました。サンスクリットで古事記は理解できるとのことで話は進みますが、流して読んでます。太安万侶は実在の人物で、墓誌が見つかっています。発見された場所がトンボ山ということで、このトンボはサンスクリットでは「悲嘆の地」で、英語の墓(tomb)やラテン語の墓(tumba)と同語源であろう。とのことです。お墓の山ということで整合性があります。
 四三頁になり、引用しますが、
『私の考えでは、結論から言えば、この古事記の「神代編」を口述した稗田阿禮は恐らくは朝廷に使えたインド人であって、サンスクリット語で暗唱し、口承したと思われる。神代編はサンスクリット語で口伝されていたのだろう。そして太安萬侶はこれを漢文で記し、その際、意味の確かと思われた語は彼の判断でその意味の漢字を使って表記し、意味の不明な者は漢字の音を並べて表記したのであろう。すでに一部は引用したが、そのことを太安萬侶はくどいほど言い訳して、次のように書いている。
「上古の時、言葉《ことば》意《こころ》並びに朴《すなほ》にして、文を敷き句を構ふること、字におきてはすなはち難し。已に訓によりて述べたるは、詞《ことば》心に逮《およ》ばず、全く音をもちて連ねたるは、事の趣更に長し。ここをもちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓をもちて録《しる》しぬ。すなはち、辭理の見え叵《がた》きは、注をもちて明らかにし、意況の解《さと》り易きは、更に注せず。また姓《うぢ》におきて日下《にちげ》を玖沙訶《くさか》と謂ひ、名におきて帯《たい》の字を多羅斯《たらし》と謂ふ、かくの如き類《たぐひ》は、本《もと》の随《まにま》に改めず』
と書いてあります。
 そのあとに、稗田阿礼の名前をサンスクリットで解釈していますが、「ぴえだ」と読めば違ってくると思われるので以下省略します。
 とにかく、稗田阿礼は、当時の人間録音機みたいな人であったということです。私自身はとてもこのような異常な記憶力を持つ人がいたとは思えなくて、太安万侶の自作ではないかといままで考えていました。しかしながら彼がインド人であったとすれば辻褄が合ってきます。インド人であれば、サンスクリット語を読み書きできます。しかもこれは表音文字です。つまり聞いたことをサンスクリットであらわせば、言った内容がわからなくても再現できます。その上、サンスクリット語は日本語の母音が5個(現在)ですが、もっと多くあります。古代の日本語で母音の数が多かったというのに対応しています。さらに言えば、サンスクリットは文字がパーツの組み合わせです。うまく使えば、速記できるのではと思われます。私も昔、速記が出来れば良いなと思って時がありました。昭和の時代にあっても使われていました。参議院式とか衆議院式とか使われていたようです。現代の速記に使われる文字がサンスクリットのように見えてきます。
 稗田阿礼について、この本からまた引用しますが(面倒なのでふりがな略あり)、
『時に、舎人ありき。姓は稗田、名は阿禮、年は是二八、人と為り聡明にして、目に渡れば口に読み、耳に拂《ふ》るれば心に勒《しる》しき。即ち阿禮に勅語して帝皇《すめらみこと》の日継《ひつぎ》及び先代《さきつよ》の舊辭《ふること》を誦み習はしめたまひき。然れども運《とき》移り世異《かは》りて、未だその事を行ひたまはざりき」・・』
と書いてあります。「心にしるしき」の部分がどうも稗田阿礼の記憶力抜群の解釈になっているようです。私にはここは単にレトリック的なもので、稗田阿礼が速記の名人であったことを言っているように思われます。稗田阿礼が自分で漢字を用いて書けば、太安万侶は不要です。漢字は速記には不向きで、サンスクリットが速記に優位であったため、稗田阿礼の存在意義があったということです。古事記が稗田阿礼と太安万侶の両者によって完成されたのも、稗田阿礼がサンスクリット的な他の人には読みにくい速記文字を口述し、太安万侶がそれを聞き取り、漢字を用いて表記し、一般化したものだという気がしてきました。おそらく稗田阿礼が死んでしまっては他の人が読むことができない状態を何とかしなくてはとして古事記が作られ、これをもとに日本書紀が作られたといういことになると思います。稗田阿礼はインド人と考えることにより、すっきりと説明することができます。古事記とインド神話の関連性も整合性あるものとして考えに入ります。
 この「古事記の真実」によれば、古事記の表記で「小字」という漢字文に添えられた「上」や「去」があり、いろいろな説があるが、サンスクリット語の独特の母音を表していて、このサンスクリット語の母音を表す文字が行草体の「上」や「去」に酷似しているということです。日本語にない母音を表すための表音記号と考えているという説も否定はできないです。まだ最初の方を読んている段階で、最後まで読めるかわかりませんが、稗田阿礼のインド人説は有力だと思いました。

追記:H30.12.28
「古事記の真実」という本を読み始めましたが、古事記をすべてサンスクリットで解釈するのは問題だという気がしてきました。地名で肥国は火の国だと思っていましたが、「ヒノ」はサンスクリットで「放棄された、低地の、欠損した」意味であろうかと書いてあります。現段階では受け入れがたいです。参考になるところも多いように思いますが、かなり苦しいところもありそうで、その辺が確認できないのが残念です。

追記:H31.01.04
稗田阿礼の名前ですが、稗田はおいといて、阿礼の方ですが、「アレ」的な発音で考えていました。この名前は当時の日本ではない名前のように思えてきました。ムハンマド・アリとか存在しているのでイスラムの世界ではありそうな名前です。稗田阿礼がイスラム系のインド人であったとしておかしくはありません。

2018年12月20日木曜日

国語に入った梵語

 国語に入った梵語辞典、平等通照編著、印度学研究所発行の最初の方を見ています。
「直接の移入ー南海のルートー」のところです。・・・義浄という唐の僧が海路からインドを往復したということから、逆にインドの達磨大師は広東に到達している。暖流が流れていて、漂流すれば、インドシナ半島を出航した船は、和歌山県紀伊半島に辿りつくのである。このようにして、扶南(Funan)の音楽家仏哲や印度の婆羅門僧正が紀伊に辿り着き、朝廷の保護を受け、東大寺の大仏開眼供養に雅楽(印度仏教音楽)を奏し、貢献している。梵語学の碩学高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)博士によれば、那智の滝の那智はインド人がその滝を見て、『ナディー・ナディー』(nadi?、川だ、川だ)と呼び、それを聞いた住民がその滝を『那智の滝』と名づけたという。鳥居は梵語のトーラナ(torana?)門、瓦はカッパラから来た、と言われる。夫々が日本にないものなので、外国語をそのまま使ったという。当時の航海術を考え、印度支那・インドネシアを中継とする、中国とインド・アラビアとの海上交通を考えば、極めてあり得ることである。現に婆羅門僧正に関する和歌が万葉集に収録されている。
『婆羅門の造れる小田をはむ鴉、まなぶたはれて、幡《はた》ほこに居り。』
 婆羅門・はた・ほこ等、日本にないものは、そのまま外来語ー梵語を用いたのである。
 海路よりの直通の移入梵語は字数は少なかったろうが、口から口への生々したもので、強力であったと思われる。
とこの本に書いてあります。この本での「鳥居」の項に、梵語のトーラナから来たと言われる。とありました。瓦は出てなくて、「平瓦」に平+瓦として、瓦は梵語(Kapara)とありました。
 はた(幡)は梵語でPataka?、ばんと読むとのことで、高楠博士の現代仏教昭和二年、五月号(四-三七号)四八頁(獅子王無畏)幡(Pataka?)flagである。
と書いてあります。現在は「はた」と言ってますが、昔は「ぱた」の可能性大です。あれっと思い、ハ行を見ると
「鉢」梵語Patraとか「ふた」梵語puta?
とかあります。昔は「ぱち」、「ぷた」と言ってたことをうかがわせます。現在のひよこが昔は「ぴよこ」というのと同じで、p→hの発音の変化を示しています。kapara→kaharaです。万葉集の歌はどんなかわかりませんので、また暇なときに調べるつもりです。?の単語は少し表記が違い(表示できない)ので要注意です。

2018年12月8日土曜日

「正倉院文書の世界、丸山裕美子著」 のメモ

「正倉院文書の世界」を読んでいるところですが、図書館の返却が迫ってきました。
購入しようと思いましたが、今は手に入らないようです。残念です。
この本で、さらっと述べられていますが、あれっと思ったことです。
・正倉院文書は東大寺写経所に関わる文書が中心ということです。この東大寺写経所はもともと藤原光明子の私的な写経所を前身として、光明子が聖武天皇の皇后に立てられると、国家機構に組み込まれていったとのことです。藤原氏の勢力の拡大とともにあるようです。公私混同のような気がしますが、経緯を詳しく知りたいと思います。
・戸籍についてですが、御野国戸籍が古い形で、西海道諸国のは新しい書式によって作成されているとのことです。律令制が全国一斉に始まったのではなく、地域によって時間差があった可能性があります。
・大仏開眼供養の儀式が、天平勝宝4年、僧正菩提僊那《そうじょうぼだいせんな》を開眼師として執り行われた。南インド出身の僧とのことです。つまりこの時に梵字がもたらされたと考える人がいます。
どなたかが、この辺りを調べてればと思います。正倉院展を毎年見ていて、まったく気がつかなかったので、どこかでひっそりと研究されているのかもしれません。

2018年12月7日金曜日

正倉院文書

 最新の情報は国会図書館リサーチ・ナビです。
 この中の研究入門書の紹介に
正倉院文書の世界 : よみがえる天平の時代、丸山裕美子 著、中央公論新社,があり、
この本の終章に資料について詳しく書いてあります。以下は自分のメモで確認の資料です。
①「大日本古文書」編年文書
  この本は図書館によっては所蔵しているところあり、借りることもできます。編年文書とあるものが正倉院文書です。ほかのものと間違わないようにしないといけません。私は近くの図書館にあることを確認しました。
②正倉院文書目録
  東京大学史料編纂所は、1960年から毎年秋の正倉院の開封のさいに、原本調査を行っており、それに基づく文書の接続・復元の成果を『正倉院文書目録』に編纂している。これによって、私たちは現段階における原型復元の最新成果をしることができる。とのことですが、こちらは簡単には見れないようです。正倉院文書のデータがあり、裏面のデータとかわかるそうです。今までの間違いとかが訂正されているそうですが、よくわかってはいません。
③宮内庁正倉院事務所 編『正倉院古文書影印集成』
 影印というのは、写真撮影のことのようですが、モノクロコピーのようなものです。後ろの方には活字で説明があります。近くにおいてあるところがあれば役立つとは思われます。古文書を読むことができるレベルの人には有用だと思います。私も何とかレベルアップしたいものです。
東京大学史料編纂所データベース外部サイトへのリンク(東京大学史料編纂所)
 「奈良時代古文書フルテキストデータベース」を選択します。 「項目検索」を選択すると、本文中の語句や和暦年月日から検索できます。と国会図書館リサーチ・ナビにあります。手軽に見ることができます。①の文書をパソコンの画面に出し、しかも印刷できます。借りた本では気をつかいますが、こちらはメモとか自由です。しかし検索がありますが、何もわからない状態ではどのようにしてよいかわからず、先にすすめません。①の文書を見ながらであれば何とかなりそうです。
 とにかく、ありがたい時代になりました。正倉院展とか、知らずに展示を見て驚いているだけでしたが、来年は予習ができ、もう少しポイントを絞って見られそうです。この宝の山を活用できれば良いのですが。

2018年12月4日火曜日

カタカナの「ン」

以前に漢字からカタカナ、梵字からひらがなと言ってましたが、間違いのように思われてきました。
梵字の「ア」が次のものです。
漢字の「阿」に見えなくもないですが、それはおいといて、
梵字の「アン」が次のものです。梵字の「ア」の上に装飾された図形があり、「アン」となります。

上の装飾された形の部分が、カタカナの「ン」に似ています。カタカナの「ン」はこの梵字の修飾するところから出てきたように思われます。この字では梵字からカタカナが生まれていて、前に言っていた「梵字→ひらがな」はおかしいことになります。再検討しないといけないとは思います。

ついでで思いついたことですが、仮名で長音化するときに棒線を使いますが、梵字の「イー」などは縦の曲線で、梵字を理解してる人にとっては、音を伸ばすのに棒線を使うのは抵抗ないように思います。梵字からの可能性はあります。

あと、「か」に点をつけて「が」にするとか、「は」に○をつけて「ぱ」に変化させるものなど、梵字の修飾の知識があって可能になったような気がします。先ほどの「アン」の梵字であれば順番では「ンア」となります。日経新聞を見ていて「嵜」という文字がでてきました。「崎」という字と同じ扱いと思います。「枩」というのも「松」を示しているのを思い出しました。昔の人は位置にこだわらわず、パーツの組み合わせで理解していて、細かいことは気にしていないような気もしました。日本語の文字は、縦書き・横書き、右からでも左からでも自在で、すごいことかもしれません。
「は」ですが、昔は「pa」と発音したそうです。従って、「ぱ」の文字が現れるのは後の時代ということです。濁音や半濁音の表示は、カタカナやひらがなができてから共通して考えられたもののようです。

2018年12月3日月曜日

神祇官と太政官

 律令制ではともに「官」で「省」より上位に位置づけられているのだけれど、神祇官移という書類が宮内省あてに出されていて、「移」は上下関係にない役所間で使用され、実質的には「省」と同列であることがわかる。実際、神祇官の長官である神祇伯の相当官位は従四位下で、八省の長官の正四位上・下より下にランクされている。
と書いてあります。(正倉院文書の世界、丸山裕美子著、中央公論社発行、108頁)
 最初は、対等であったのが、鎮護国家ということで仏教が取り入れられ、神祇官の地位が太政官に較べて低下していることを示しているのだと思います。

2018年11月27日火曜日

長岳寺五智堂

 説明版によれば、長岳寺の飛地境内に立つ、方一間の小さい建物で、中央には太い欅の丸柱があり、四方に梵字の額を掲げている。中央の心柱は大日如来を示し、額を含めて五仏を現している。南に宝生如来(タラーク)、北に不空成就如来(アク)、東に阿閦《アシュク》如来(ウーン)、西に無量寿如来?を表している。とあります。金剛五仏であれば、西は阿弥陀如来(キリーク)になります。無量寿如来は(アン)?

アクは「ア」+「点々のク」ですぐわかります。

タラークは「タ」+「ラ」+「-(伸ばす)」+「ク」です。

キリークは「カ(実際はK)」+「ラ(Rの発音)」+「イー」+「ク」でしょう。

ウーンは、「カ」と「ウ」で「ク」となり、「クーン」で「K」の音がとれて「ウーン」となったのかと思います。ドイツ語で本のブックがブッフのようになってるのと同じかなと想像します。

自己流なので、どこまであってるのかは不明です。

追記:H30.12.05
 梵字独習書改訂版、大辻徳成著、鴻盟社発行の16ページに
五佛・五如来・五菩薩・五智・五大尊のところ、西方の「キリク」の佛尊で
無量寿如来、弥陀如来、観音菩薩、妙観察智、大威徳明王とありました。したがって無量寿如来もおかしくはないのかもしれません。
ついでにメモっておきますが、
北方の「アク」は、大通智性佛、釈迦如来、雲雷菩薩、成所作智、金剛夜叉明王。
東方の「ウン」は、阿閦佛、薬師如来、普賢菩薩、大円鏡智、隆三世明王。
南方の「タラク」は、宝幢佛、宝生如来、虚空蔵菩薩、平等性智、軍荼利夜叉明王。
中央は「バン」で、毘盧遮那佛、大日如来、金剛菩薩、法界躰性智、不動明王。
このようにあります。打ち間違いがあるかもしれません。
五智といっても単純ではないのだと思いました。

追記:H31.0.03
初詣に出かけたときに、阿弥陀堂の説明版がありました。
本尊の阿弥陀《あみだ》如来は、その寿命が無限であることから無量寿《むりょうじゅ》如来ともいい、またその光明が無限に十方世界を照らすことから無量光《むりょうこう》如来とも称され、西方極楽浄土の教主とされます。・・・と書いてありました。

2018年11月19日月曜日

正倉院古文書、戸籍

 今年は、正倉院展で豊前国の戸籍が出展されていましたが、詳しくは見れてませんでした。古文書を見るときの基礎知識がないので仕方の無いところがあると思っていました。たまたまですが、「正倉院文書の世界、丸山裕美子著、中公新書」を見つけました。この本では、カラーの口絵に大宝2年の筑前国の戸籍が採りあげられています。この時代の戸籍としては美濃国以外に西海道諸国のものがまとまって残っているそうです。西海道は九州地方のことで、筑前・豊前・豊後国のものが残っていて、同じ書式で、大きな国の朱印が整然と押されていて、太宰府の指示により統一した書式で清書されたのだと考えられている。とのことです。
下記リンクの図は、文化遺産オンラインより
筑前国
豊前国
拡大してみれば、国印は豊前とか筑前とか違いますが似ています。
 この本では、戸籍の名前・年齢などが書き出されていて(活字で)、ふりがなもあり、わかりやすく見ることができます。来年は正倉院展に出かける前に、この本を見ておくと文書類の展示も理解できると思いました。
 筑前・筑後とかの前後のつく国名ですが、この名前になるためには、前もって統一された戸籍がすでにあり、それを元に分割したということなので、大宝律令以前の戸籍があったと思われます。備前・備中・備後や越前・越中・越後など、さらに前中後がつく国もありますが、古い時代から戸籍があったと思われるので、この地域が安田仮説の名字の関連する地域と重なってくるので無関係とはならないと思います。国名が前後だけでなく上下のつくところもあります。前後では都に近い方が前で、遠い方が後ということで、この本では下総・上総も昔は海路なので南が都に近く上となったとあります。そういうことのようですが、総前・総後になっても良さそうなので、何か条件が違うとは思いますがわかりません。
 全体として戸籍が地域により違っているようなので、完全に中央集権国家ではなく、連合的な国であったようには感じます。道鏡の宇佐八幡宮事件も理解しにくいですが、地域の力が強かったのかもしれません。藤原純友の乱や平将門の乱など、中央からの視点では反乱ですが、締付けがきびしければ、そういうことが起こる状態だったかもしれません。鎌倉幕府も中央に対する反乱のようなところがあるので、奈良時代も確固としたものではなかった感じがします。図書館の返却期限があるので、この本をもう少し読みたいと思っています。

2018年11月16日金曜日

アジアの調理器具

 NHKの趣味どき アジアごはん の番組を見ていたとき、
調味料を作るのに押しつぶすして混ぜ合わすような道具が出ていました。
第1回韓国、第2回インドネシア、第3回ベトナム、第4回トルコ、第5回タイ、第6回台湾、第7回イラン、第8回インドの放送でしたが、どの国か記憶が定かではありません。この道具が良く出てきました。インドは確実です。
 ネットで見れば、タイ料理では クロックストーンミルセットのようなものです。


 この中でのいくつかの国では、このような器具を使っていました。共通の食文化があったという気がしました。おそらく仏教などを通じて共通の食習慣になったのだと思われます。放送では南インドの料理でした。北インドの方はイランやアフガニスタンなどの中東の影響を受けて少し違うんだと思います。南インドは東南アジアの国と近く、文化圏が同じかもしれないと思いました。餅つきも臼を使いますが、何か関係あるかもしれません。上記の番組の本がありましたが、調理器具についてはタイのクロックが紹介されているだけで、調理のレシピとかが中心で、調理器具については詳しくは無かったです。世界中どこでもあるのかもしれませんが、この地域に限定されるものかもしれません。

追記:
[絵引]民具の事典【普及版】、発行:河出書房
この本で、日本での似たようなものを探すと、
  • うす・・・・餅つき、穀物の脱穀・精白・製粉
  • こね鉢・・・そば・うどん・団子・饅頭などを作る。
  • すりばち・・ごま・大豆・味噌などを擂ったり、とろろ汁や豆汁、魚のすり身など
  • 乳鉢・・・・薬の原料や顔料を擂って細かな粒子にする小鉢状の器
などです。
日本では、このような調理器具は無いと思っていましたが、そうでは無いようです。すり鉢などは似ています。すじの有無の違いがあり、乳鉢が機能的には似ていますが小さい感じです。微妙な感じですが、どこにでもありそうな気はしないでもありません。まあ、思い込みかもしれませんが、直感的には、南インドと東南アジアとのつながりを感じました。


2018年11月14日水曜日

正倉院文書を調べる

 正倉院展で、豊前国仲津郡丁里(よぼろり)戸籍が展示されていたのですが、よく見ておらず、メモってなかったので思い出せません。しかし、今回の戸籍を見ていて、多分、現在の名字につながるものは出てこないような気がしました。戸籍のイメージが違うようで、豊前国戸籍などが、庚午年籍 庚寅年籍を引き継いでいるとすれば、安田仮説は店じまいしないといけないように思います。しかし、今ある名字は奈良時代・平安時代の影響を受けているはずで、そのメカニズムも不明です。もう少し考えてみたいとは思います。
 今回、宮内庁の正倉院宝物紹介の中に、戸籍がありましたが、混雑の中で初見で理解することは、残念ながらできそうにはありません。図録なども文字がはっきり見えません。いろいろネットを探すと
独立行政法人国立文化財機構文化財活用センターで、正倉院のものではなさそうですが、豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡がありました。
コピーなどは禁止とのことで、urlメモです。
かなり拡大できて文字も見ることができます(読むレベルにないのがかなしい)。
今まで知りませんでしたが、探してみるとデーターベースがいろいろあるようです。
正倉院文書を調べる
とかうまく活用できればということになります。

・正倉院展に出展される戸籍類の文書について
これらの多くが、正倉院文書の「正集(せいしゅう)」四十五巻のグループに属している。これは、江戸末期の天保年間に穂井田忠友(ほいたただとも)という国学者が、主に「写経所文書」を対象にして「整理」したものだ。・・・ということです。正倉院文書入門、栄原永遠男著に書いてあります。

 写経所の文書とは、元々あった戸籍とかの文書の裏が白紙でその部分を再利用して写経書の文書ができているのを、切り貼りして戸籍などを巻物のように復原したものを「整理」というようです。従って戸籍は完全なものではありません。写経所で書かれた状態に戻すのと、その元に戻すのと二重の復原があるそうです。

2018年11月12日月曜日

第70回正倉院展、山水図

先日出かけてきました。多数の人が見学されていて、中国語も聞こえ、国際化していて、どんどん混雑の度合いが増してくるのかもしれません。出品されるものは入れ替えられるとのことで、十年は見ないといけないらしいので、まだ道半ばです。今年は進歩して、図書館で正倉院の宝物の大型本を見て、予習をしました。出品されるものとの対応がわかりにくく、探せないものとかあり、難しいなと思い、今後の課題です。その中で山水図というのがあり、この中で馬が描かれていて、興味をもち、実際のもので確認しようということで、展示してあるガラスの面にへばりつきましたがわかりませんでした。買ってきた「正倉院展」目録を見ても、小さくてよくわかりません。
ところが、宮内庁の正倉院宝物検索というところがあり、詳細に見ることができました。ありがたいことです。
山水図は1と2があり、今回出品のものは山水図2の方です。
下図は切り取りしたものです。

会場の説明では中央の鳥居のようなものは門との説明がありました。私には高床式の倉庫(正倉院の建物のミニチュア版)のように見えましたが、別の宮内庁の山水図1では周りに塀らしきものがあるので、やはり門のように思われました。そうすると門の右側にある棒状のものは旗のような目印を掲げるもののように思えてきます。左の方の家ですが、格子状の部分は壁のようで、のれんのようなところが出入り口になっているようです。屋根の上の丸いものはおそらく石で、屋根を押さえているのだと思われます。想像していくと面白いものがあります。
この図の元は
http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Image/ViewerMain/0000010945?imgNo=CO0000001697&clp=0,0,2353,2941,640,800,0&uq=1541984291494
にあります。切り取りのみで画像の編集とかしていません。
以下の図も同様に宮内庁の検索で出てきたものです。

次の図は、小舟と二人の人物です。二人は座っていて、船には誰も乗っていません。想像するに、この二人は渡し船の船頭さんで、客の来るのを舞っている情景に見えます。職業として成立しているように思えます。つばのある帽子をかぶっているのは渡来の風俗のように見えます。
この図も、上記のところからの切り取りです。


次の図は三人の人物と家があるところです。こちらの家も屋根に石をのせているように見えます。柱だけで壁がなく、雨宿りの建物のように見えます。人物三人のうち、右側の人は背が丸まった老人のようで、視線は左手の二人を見ています。中央と左手の人間は対面しており、中央部の人物は小さく描かれていて、子供のようです。首をうなだれているようで、親子で説教を受けている雰囲気です。目録の解説では左の人物は獣皮に座っているとありますが、確かに獣皮のしっぽのようなものがあります。

次のが見落とした馬に騎乗する人物の図です。
図のスケールは5mm、1cmの目盛がありますが、わかりにくいと思います。会場の人混みの中で探し出すには困難でした。二人の水平垂直の交点に犬らしき動物がいます。この動物を追っているのか、使って狩りをしてるのかはわかりませんが、狩猟をしている風景に見えます。



タイトルは山水図となっていますが、図を見ると、ススキの穂がなびいているようなところが全面にあります。どうもこの部分は、波が連なっている様子を表しているようです。つまり絵としては山水水図みたいです。後の絵巻で雲が表されるところが水面なのかと妄想は膨らみます。

2018年10月30日火曜日

カースト制度から

 カースト制度はヒンドゥー教の身分制度で、大枠はヴァルナと呼ばれる4つのグループとその下におかれた不可触民のグループにわかれます。前者はブラーマン(司祭・学者階級)、クシャトリア(王侯・戦士階級)、ヴァイシャ(商人・平民階級)、シュードラ(上位三階級に奉仕する隷属民・農民・職人)から構成されており、それぞれのヴァルナには多数のカースト集団(ジャーティと呼ばれる)が属している。ジャーティは「生まれ(を同じくする者の集団)を意味する」とのことで職種によって区分された職能集団で、地域共同体の分業関係が維持され、世襲制のものとなり、結婚もグループ内ということになるようです。インドがイギリスの植民地となったとき、国勢調査が行われ、中位のカーストでは曖昧だったものが、これで序列が固定化したそうです。序列については不明ですが、古い時代から職人集団が村落内だけで無く広いネットワークの中で成立していたことが考えられます。
 参考本には、
かって村落在住のカースト集団の間には、それぞれの生業に基づいた分業関係が維持されており、王国支配下の地域共同体の場合、分業体制は各世帯が地域の生産物を世襲的に受け散る職分権により成り立っていた。壺造り、大工、鍛冶屋、職工、染色屋、仕立屋などの職人カーストや、床屋、産婆、洗濯屋などのサービスは・カーストは、多数を占める農民をはじめ、ほとんどの村人に、年間を通じて生産したものやサービスを提供し、その報酬として穀物や野菜、壺、布などの現物を受け取ったり、サービスを受けていた。このような関係は、生産品やサービスを提供する側とされる側の間の契約によって成立するものであるが、特別なことが無い限りこの契約関係は排他的かつ恒久的に継続していくものとされる。こうした分業体制によるカースト間の経済的総合依存関係はジャジマーニー制度(ジャジマンとは顧客のこと)と呼ばれ、1936年に、北インドで調査を行ったワイザーの報告によって明らかになったのである。
以下引用を省略します。これは日本の古い時代でも職業的なものは違いますが、ある程度の農業生産が行われて、経済的な余裕が生まれ、分業体制ができたものと思われます。ヤマト王権の部民制(王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制)のことが妄想され、中央集権的な体制でなくても良さそうに思われます。

参考:カーストから現代インドを知るための30章、金 基淑(キム・キスク)編、明石書店発行

2018年10月26日金曜日

五十音図と梵字

梵字の五十音図を見ました。


梵字は表音文字です。ひらがなの「か」をローマ字で表せば、「ka]となります。「き」はローマ字では[ki]ですが、梵字では[ka]+[i]で「き」になります。
ローマ字の[ka]では「k」+「a」の子音+母音の組み合わせですので、横書きで左から右方向に向かう並びになります。ひらがなであれば特に方向は関係なく縦書きでも問題ありません。梵字も同様のようです。梵字について、五十音図でかなりわかりますが、表音文字で「あ」、「か」、「さ」、・・・の「あ」の行が基準になり、子音に相当するものが「い」行、「う」行とついています。ひらがなであれば、「か」の列、こちらをか行というのかもしれませんが、縦の列の文字からは「k」音を感じることはできません。梵字であれば、子音の字形のどこかに母音を示すものがついて、縦横の関係でなんとなくわかるような気がします。梵字では母音に相当するものが日本語のあ~おの五音より多くありるので、縦に伸びることが考えられ、実際はもっと多いはずで、違いはありますが、かなの五十音図は基本は梵字の悉曇学にあるようです。
ひらがなは漢字の草書体から取り入れられたというのが定説ですが、納得しにくいところがあります。この梵字の五十音表を見ていて、「つ」のところです。拡大します。

「つ」は手元の五體字類を見ると、門、川、都、徒、津などから取り入れられたようですが、梵字からではという気がします。「つ」は梵字の下の部分ですが、「う」の字も梵字の上部が点になったように思われます。「す」の字も下の方のくるっと回ったところなど似ています。
漢字は直線的であり、梵字は曲線的なようです。これを考えると
漢字→カタカナ
梵字→ひらがな
ということになります。無理を承知で言ってますが、部分的には梵字が仮名に取り入れらた可能性はゼロではなく、仏教を日本へ持ち込んだ時に、梵字の簡略化されたものが用いられたものの、日本では種子《しゅじ》として諸仏諸尊をあらわしており、神聖なものとして、利用が制限されてしまった可能性はあります(単なる想像です)。紀貫之の土佐日記も何かしらの制約があったのではと思います。

2018年10月25日木曜日

インダス文明の衰退原因について

環境人学と地域、インダス 南アジア基層世界を探る、長田俊樹編、京都大学出版会発行
を見ています。インドについて古い本を見ていると、かなりの認識の差があり判断をあやまる可能性があります。インダス文明とはインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および平行して流れる川のあたりに栄えた文明とされています。
タイトルの衰退原因ですが、
1.アーリア人侵入破壊節
2.メソポタミアの貿易停止説
3.社会的文化的変容説
4.森林破壊大洪水説
5.インダス川の河流変化説
6.インダス川自然ダム水没説
7.サラスヴァティー川消滅原因説
8.気候変動説
があげられています。
1の説には、イギリスの考古学者ウィーラーで、モヘンジョダロにおける虐殺跡とされる人骨の発見である。これと「リグ・ヴェーダ」の中の記述の「砦」などと結びついて生まれた説という。この説はa)アーリア人の侵入した年代とインダス文明の衰退した年代にはかなりの差があること、b)モヘンジョダロで発見された人骨は決して虐殺されたものではないこと。c)「リグ・ヴェーダ」は神話であり、これがどこまで史実を示しているかということがあるとのことである。
 最終章においてもアーリア人侵入破壊説の否定が述べられている。この本は2013年に出版されたのであるが、2011年にもまだ旧態依然として訂正されていない穀物倉の写真があると書いてあり、一度定説化したインダス文明像を覆すのは大変であるとのことです。海上交通とインダス文明という章立てやネットワーク共同体としてのインダス文明なども述べられています。私の理解するところ、中央集権的な絶対王権の世界では無かったということだと思います。古代の日本も大和政権が絶対的なものではなかったと考えることに通じていくように思います。

2018年10月18日木曜日

都市国家

梵字入門(応用編)、松本俊影編、三密堂出版
この本の最初に梵字の歴史について記述されているところ丸写しです。

1,インドの変遷(梵字に関係ある部分のみ)
 梵字の歴史を語るに先だって、インドの古代の様子を簡単にたどって置きたいと思う。インドの文明を建設した人種はアーリア民族であるが、この民族はもとからインドにいたわけではない。紀元前二五〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域には原住民による高度の都市文明が発達し、一種の象形文字もあった(但しこの文字は未だ解明されていない。)。この文明をインダス文明と呼ぶが、前二〇〇〇年頃、アーリア人が中央アジアのオクサス川流域方面からインダス川流域へ侵入して来て定住し、ドラヴィダ族等その地方の原住民を服属させて奴隷とした。こうしてインダス文明は破壊された。それ以後はアーリア人中心の文化に移る。始めアーリア人は半農半牧の民であったが、川の恵みによって農耕の生活に変わっていった。この頃、リグ・ヴェーダ(前一五〇〇~一〇〇〇)が成立。前一〇〇〇年頃、その勢力は東のガンジス川流域へと拡大していき、都市国家が成立。それにつれて部族長であるラージャの権力が増大し、インド人の間に階級が生じてきた。これをカースト制度という。その制度はバラモン(僧族)を最高身分として、次が軍事面の指導者である王や武士階級、第三が農工商を営む普通の人民で、これらの三階級はアーリア人であるが、最下位の奴隷はアーリア人以外の征服されたドラビタ族(*最初と表記が違っています。)等の人達で、 種々の賤業苦役に従事させられた。結婚、職業などにも強い制約をもった世襲の厳しい身分制度であった。こうした制度を認め、僧族偏重のバラモンの説く教に反抗の声があがるのは当然であって、その支配に反対する宗教革新運動を展開したのが仏教とジナ教であった。釈尊(前五六六~前四八五?)はこの時期に在って、人間の平等と八正道をおこなうことによって苦を解脱することが出来ると説き仏の慈悲を説いた。仏教が特に士族に支持されたのに対し、ジナ教は商人階級に支持をえた。・・・・以下略。
 仏教の話も面白く、カースト制度が紀元前からというのは驚きですが、都市国家というのに興味が引かれます。初期には都市国家であるのは、ギリシャでアテネやスパルタがあったように、都市国家ができて文明が発達していくのが一般的ではないかと思われます。日本の場合も皇国史観にこだわりすぎていて、古い時代にすでに統一されていたような錯覚を持っていますが、少なくとも奈良時代より前は、日本でも都市国家のようなものがあって、ある程度文化的な面(祭祀儀礼など)では共通するところがあっても、ほかの面では、ばらばらであったと考える方が無理がないです。

追記:H30.10.24
この梵字入門の本は古いので、アーリア人が侵攻してきたことやカースト制度については現代では認識が違ってきているようです。

2018年10月17日水曜日

鴨稲荷山古墳の石棺

近江、石の文化財、瀬川欽一著、サンライズ出版
を図書館から借りてパラパラと読みました。石造物について丁寧に書かれいて勉強になりそううです。その中で、
近江に各地から持ち込まれた石材として
笏谷石(越前凝灰岩)や和泉石(阪南市にある葛城山系の砂岩)などが入って来ているようです。和泉石は安土桃山時代を迎えた頃より、淀川水系を舟で琵琶湖に大量に運び込まれて湖岸地方を中心に、これ以降の供養塔となる一石五輪塔として近江の墓石の大半を占めていくようになります。・・・石棺の項で
滋賀県で最も有名なのは、高島町大字鴨にある稲荷山古墳の石棺で、大和時代の継体天皇の父にああたる彦牛王の墓という伝説があります。この石棺は、家形石棺といって、石室は近江では出ていない白色凝灰岩が使われていて、大和の国の二上山山麓から近江までわざわざ運ばれています。たぶん水運によって運ばれたものと思われますが、伝説として残る6世紀前半の彦牛王の湖西における権力の偉大さと、政治的な大和朝廷との結びつきの強固さをうかがうことができます。
 もとの古墳は全長45メートルの前方後円墳で、石棺の長さは2.3メートル、幅1メートル30センチ。棺外と棺内のそれぞれにあった豪華な副葬品が、古代朝鮮半島の新羅国にある墳陵の副葬品と似ていることから、近江に特徴的な渡来人の文化を示す例でもあります。
とあります。
伝説的な話はおいといて、陸路を二上山から運んできたとは思われません。湖上のルートが古い時代から確立していて、それが継続していたように思われます。

2018年10月14日日曜日

芦浦観音寺と秀吉の朝鮮出兵

 芦浦観音寺は滋賀県草津市北部の芦浦町にあります。国会図書館のデジタルライブラリーで「近江:歴史と文化」川勝政太郎著の中に載っていました。
秀吉の時代に船奉行を命ぜられ、琵琶湖の水運を一括差配するようになったということです。この本には
近世の琵琶湖の湖上通行の実権を握っていたことは有名だが、湖上通行の許可と通交税の徴収によって大きい権力と経済力を持ったのである。叡山焼打ちのあと、坂本にいた西川氏出身の詮舜《せんしゅん》は観音寺に入り、秀吉の征韓の軍に、琵琶湖の水手《かこ》200人を集めて水軍を組んで参加した・・・
とあります。
 秀吉の時代であっても、対外的には琵琶湖の水運に利用価値があったということだろうと思います。遣隋使や遣唐使の時代であればなおさら琵琶湖の水運の利用が重要であったと思います。
芦浦観音寺のpdf

追記:H30.10.29
船奉行は12名いたと何かに書いていました。それほど有力では無かったかもしれません。

2018年9月30日日曜日

犬上御田鍬

 遣隋使では犬上御田鍬という人がいます。御田鍬は田を鋤くということで、牛馬を使ったハイテクなイメージを持ちますが、こちらは置いといて、犬上の方です。犬上氏は古代豪族で、本拠は近江国犬上郡です。現在の滋賀県東北部の地名です。犬上氏は八世紀以降は衰えた。とのことです。日本海側からやってきた渡来系の人に思われます。遣隋使は瀬戸内海を航行するので、どうしてこの地域の人が選ばれたのか不思議です。小野妹子との繋がりを考えました。小野氏は琵琶湖の南、犬上氏は琵琶湖の北です。おそらく琵琶湖岸を陸路でつながっていたのでは無く、湖上を船で行き来していたと思います。ある程度はなれた地域の運航で、造船や操船の技術に長けていたはずです。遣隋使も海外ですので船の技術が必要で、それに犬上氏や小野氏などの古代豪族が対応できたのではと思いました。つまり遣隋使の主となる人は、通訳的な人ではなく、船の技術を持っていた人達ではないかと思いました。犬上氏などは中国に行くとしたら日本海側からの方が便利のはずで、船の問題が無ければ選ばれなかったような気がしてきました。

2018年9月29日土曜日

小野神社

 小野神社は、各地にありますが、ここでは滋賀県大津市小野にある神社です。境内社 として小野篁神社がありますが、一見こちらがメインに思われます。向かって左手に本社というか本殿があります。祭神の米餅搗大使主命は日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けているそうです。社殿前には狛犬の代わりに石の鏡餅が左右に飾られていて、そうかと思います。この地は昔の小野一族の本拠地で、地名や名字などの小野の発生地と案内板に書かれていました(注1)。近くに古墳群があり、少し離れたところにある小野妹子神社には唐臼山(カラウスヤマ)と称する古墳があったとされ、全然でたらめの話には思われません(注2)。現在の社殿は新しそうですが、建物の外に柱が据えられ、これが棟持ち柱に見えるので、神明造でした。私は伊勢神宮だけ神明造があるものと思い込んでいたのでびっくりしましたがそれほど珍しいことはなさそうです。ウィキペディアでは、明治時代になり伊勢神宮をまねたものがあるそうです。伊勢神宮の独占ではなさそうですが、この辺は私には良くわかりません(注3)。小野神社は目立ちたくないのかひっそりとある感じです。一方、小野篁が神社の社格をあげるなど貢献があったことで、篁神社が中心になったのかなとは思います。この小野篁神社の本殿は、古い趣があります。南北朝前期とされ、重要文化財になっています。横から見ると流れ造りで正面三間(柱の間隔が三個)すが、お参りする向拝の部分が一間になっているのはこの地方の特徴だそうです。この地域の大工が主となって建てるので、ほかの地方から応援を頼んだとしても、地方性が出てくるのだと思います。小野道風神社も同じ形式のようです。カエルと柳の木がありました。この話もすっかり忘れていました。案内板とか良く読まないと意味わからない人が多いとは思います。遣隋使の小野妹子が実際にどこの人かは不明ですが、それらしき人がこの地に関係していたかもしれません。大津の地が琵琶湖の西と東をつなぐ結束点にあったことは確かで、日本海側からやってきた渡来人が住み着いた場所にはなると思います。小野妹子がこの地で無くても大問題にはならないとは思います。

注1:国史大辞典で「小野」の項を見ると
1.兵庫県の中西部に位置する市。加古川の中流で明石・西沿いに通じる街道沿いの要地。青野原鶴池で旧石器時代の石片が発見されたほか、粟生・新部のなどの弥生遺跡、王塚・大塚などの古墳や焼山ほかの郡集積など、考古的遺跡・遺物が多い・・・・
2.京都府の古地名。「和名類衆抄」によると、山城国には愛宕郡小野郷(京都府左京区修学院北方の地域)、宇治郡小野郷(京都市山科区小野)の2ヵ所があって、丹後国には竹野郡小野郷(現在地は不明)がある。・・・
3.滋賀県滋賀郡志賀町の地名(現大津市)。西近江路沿いで琵琶湖西端に位置し、近淡海国造の根拠地、古代の小野氏の出身地と推定される。小野妹子墓と伝承を有する唐臼山古墳をはじめ、小野神社古墳群、石釜古墳群、道風神社古墳群・大塚山古墳群などが集中しているが、それらの築造年代は不詳である。弘仁ごろには小野氏宗族は小野を離れ、京師に止住したものと思われる。・・・
とあります。
注2:小野妹子は不明ですが、その子の小野毛人《おののえみし》の墓誌が山城国愛宕郡の墓から出てきたそうです。小野毛人墓誌(国宝?のちの奈良時代に作られたらしいです)。
小野小町の出生地や墓は全国に多数あり、国史大辞典では、小野氏は、神職として全国に広がっている家柄で、社寺の縁起とも関わり深い。小町伝説の展開にも、小野氏が大きな役割を演じていたのではないかと考えられる。と書いてあります。
また、「滋賀県の歴史散歩(下)」唐臼山古墳について1734年(享保19)の「近江輿地史略、滋賀郡小野村」の項には「妹子の旧跡知る者なし」とあり、1882年(明治15)の「近江国滋賀郡小野村誌」にも、唐臼山古墳に関する所伝は見えない。大正時代になってから、小野妹子の墓との見解が生まれたとのことです。この古墳から七世紀前半の頃の須恵器が発見されたことから、小野妹子神社が創祀されたと書いてました。
注3:「復元思想の社会史」、鈴木博之編、建築史料研究社という本に、熱田神宮のことが書かれています。元々尾張造だったのが、明治になり神明造に変更しようとして、明治22年に伊勢神宮のコピーを考えていたようです。伊勢神宮の知るところとなり、反発があったようで、明治24年には改造一部変更案で双方受け入れ、明治26年、熱田神宮は伊勢神宮を模した改造を行ったとのことです。この本に伊勢神宮と熱田神宮の図面があり、小さいですが同じように見えました。現在の熱田神宮は戦災で焼失し、式年造替後の古い内宮正殿を移築した物であると書いています(この本は2006年発行)。伊勢神宮は「唯一神明造」とされますが、伊勢神宮の差別化を図るために皇国史観の時代、建築史家の伊藤忠太の唱えたもののように書いています。

2018年9月25日火曜日

和紙の里

和紙文化辞典、久米康生著、株式会社わがみ堂発行、この本に
全国の紙郷分布に簡潔にまとめられています。

 全国各地での製紙は、奈良時代に中央政府の図書寮《ずしょりょう》で養成された造紙丁《ぞうしてい》によって国衙細工所ではじまり、律令体制の衰退にともなって荘園での造紙が優勢となり、中世末期には商品経済の展開にとともに特産地が形成された。古代・中世の紙の消費者は公家・僧侶・武士などの上層階級だけであったが、近世には町人まで紙の消費層がひろがり、記録文化財から生活文化財としての需要も高まり、上方市場の重要商品に成長するのを背景として、さきの特産地を中核として広く紙郷が形成された。特に西日本の諸藩では紙を専売制に組み入れて増産を奨励したところが多く、有力な紙郷を育てた。

と書いています。
同じ本に、和紙史略年表があります。
西暦296年、西本願寺蔵の「諸物要集経」は西晋元康六年三月一八日付で現存する日本最古の写経
とあり、途中省略しますが、
西暦652年、白雉三年、最初の班田収受終り、毎年計帳、六年ごとに里別の戸籍を作ることとし、その紙・筆・墨を郷戸の負担とする
とあります。紙の生産はある程度、一般化していた可能性があります。
和紙文化関係の主要文献で最初の方に
1.正倉院文書(大日本古文書)、東京大学史料編纂所
2.古語拾遺、忌部広成
3.令義解、清原夏野ら
4.延喜式、藤原時平ら
以下略
載っていました。

和紙については、
「和紙の里 探訪記 ー全国三百ヵ所を歩くー」菊地正浩著、草思社
この本を見ました。和紙の里について書かれています。全国に多数あるそうで、消滅するような所を含めて、各地を巡って調査されています。手漉き和紙についても詳細に書かれています。和紙について知らなかったので興味深く読みました(最初の方だけですが)。読んだ部分のメモ書きです。

 和紙の三大原料は、楮《こうぞ》、三椏《みつまた》、雁皮《がんぴ》である。それに紙の繊維をつなぐネリが必要になる。楮は当初、榖と書いてカジとも呼んでいた。榖(かじ)は梶、構、楮の木のことで、厳密には異種だが識別し難いので同種として扱うことが多い。近年の学説ではヒメコウゾとカジノキの雑種を楮と呼んでいる。聖徳太子が楮の栽培を奨励したとされる頃は、カジと呼んでいたようだ。今でも梶、楮、榖、構の字がつく地名は多く残る。

と書いてあります。名字で梶のつくものは舟の梶のように思っていましたがそうでも無さそうです。また

 三椏は三股、三又とも書き、紙幣に使われることで知られる。ジンチョウゲ科の落葉低木で、三本の枝分かれが吉兆とされる。ちなみに、三枝《さえぐさ》姓は幸草《さきぐさ》がサエグサになったものという。
と書いています。
 雁皮はジンチョウゲ科の落葉低木で、カニヒ、紙斐《かみひ》とも呼ばれ、枕草子には「かにひの花」とある。・・・・以上三種以外にもクワ、杉、松、竹などいろいろな植物の繊維が原料となる。北海道は大きな蕗《ふき》や千島笹、沖縄はバナナの葉のような芭蕉(ばしょう)が紙材となる。
と書いています。各地域で土地にあった紙が種々作られたようです。
 通称ネリと呼ぶ糊は、日本独特の流し漉きで使用する。中国の溜め漉きではネリは使用しないと書いています。
 流し漉きですが、平安時代の大同年間(806~10)、京の紙屋川の畔に公用紙の調達や製造を職務とする官営造紙所「紙屋院《しおくいん》」が設置された。そこで確立したという。これは叩いてほぐした繊維を水に入れ、ノリウツギやトロロアオイの粘液である「ネリ」を溶かしてよく攪拌し、これを漉き簀《す》にすくって揺する。残った水を前方に捨て、簀の上に残った繊維の集まりを積み重ねる。そして水分を抜き、板に貼って干すという技法である。
と書いています。知らない人にはわかりくい説明かもしれません。溜め漉きでは繊維が積み重なるのに対し、流し漉きでは、繊維がからまって薄い厚さの紙が作りやすいということだと思います。
 和紙の利用についても詳しく書いてあります。かっては紙の着物が常用されており、地方によっては今も着ているところがある。紙衣《かみこ》(紙子)は主に冬物の着衣で、厚手の和紙を蒟蒻糊《こんにゃくのり》で貼り合わせたものである。とあります。ほかにも利用例があげられています。そういえばエンジンの部品の接合部に油紙のパッキンみたいな物が使われていました。紙は文字を書くためだけのものではないようにも改めて思われました。
 この本には、第三章で紙祖神たちの里が取り上げられていて、最初に越前和紙が出てきます。岡太《おかもと》神社と大瀧神社には、約1500年前、越前出身の継体天王(在位507~531)の時代、南部の五箇村を流れる岡太川の上流より美しい姫が現れて、貧しい村人たちに紙漉きを教えたという伝説が残る。村人は姫を「川上御前」と呼び、岡太神社を建てて祀った。日本には大陸から紙が伝えられた四~五世紀頃には、越前にすでに製紙技術があったという伝説である。現在、「五箇地区」と呼ばれ、和紙業者が軒を並べて昔ながらのたたずまいを見せている。
と書いてあります。この越前和紙がトップですが、次に阿波和紙について書かれています。
阿波和紙の発祥は、旧川田村(山川町川田)である。和紙と凍《しみ》豆腐が特産の集落であり、はあ古くから行われていた。忌部氏《いんべし》の一族、忌部広成《いんべのひろなり》が残した「古語拾遺」(807)には、「天富命《あめとみのみこと》が天日鷲命《あめの ひ わしのみこと》の子孫である阿波忌部一族を率い、阿波国に来て、麻、楮を植えて紙や布の製造を盛んにした。その地を麻植《おえ》郡といい、今もその子孫が住んでいる」と記録されている。天日鷲命は神話上に登場する神で、天照大神が天岩戸に入ったとき、弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まり、仲間の神々は吉祥の鳥として喜んだと伝えられている。山川町の高越《こうつ》神社には、天日鷲命が祭神として祀られている。
と書かれています。話は紙祖神になり、この地から阿波から関東に伝播したという。
 鷲ノ子《とりのこ》紙(栃木県珂川町馬頭《ばとう》・茨城県常陸大宮市(さいたま市?)美和)鷲子山上《とりのこさんじょう》神社、タイトルは「名門鷲ノ子紙を広めた紙祖神」となっています。
この鷲子山上神社の石段が県境になっている珍しいところだそうです。右が茨城県、左が栃木県とのこと。この本によれば
神社の創建は大蔵坊宝珠《ほうしゅ》上人、社歴によると、大同2年(807)、馬頭の僧であった宝珠上人は諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会っている。鷲子牁山神社の守護神は天日鷲命。四国の阿波忌部の祖、紙の紙祖神である。
と書いてあります。
つまり和紙製造は中央から順番に地方に拡散したのではないように思われてきます。
美濃和紙についても書いてありました。
美濃和紙(岐阜県美濃市)
 現存する最古の美濃和紙は、大宝2年(702)の正倉院蔵の戸籍「御野国戸籍断簡」である。この用紙は他の国の戸籍に較べ、きわめて優れた紙質であったとされている。御野国《みののくに》は、現在の岐阜県西濃域、揖斐川流域のこと、また文献に現れたのは、天平9年(737)の正倉院文書「写経勘紙解《しゃきょうかんしげ》」が最初とされる。これらのことから、美濃地方に製紙技法が伝播されたのは七世紀後半と考えられる。美濃が紙里の中核となったのは平安時代以降。
と書いてあります。
土佐和紙についても述べられています。
遠島の阿波和紙が、四国での阿波和紙の発祥とされている。その次に出てくるのが土佐和紙とのことで、九二〇年頃(平安時代)の記録「延喜式」には「紙を作る国」としての名がある。とのこと。個人的な想像ではもっと早い時期になってほしいがそうではありません。どのようなルートで和紙製造が伝わったか興味があるところです。

吉宗 象

 NHKの[ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 【いきものおなまえ夏SP】
という番組で一ヶ月ほど前ですが放送されていました。日本人の名前の番組で動物とは脱線気味ですが、ひょっとしてと思いました。内容は
象という漢字をゾウと呼んだのが始まり、奈良時代にはすでに使われていた。江戸時代後半にはなぜかほとんどの人がゾウの姿をおなまえを知っていたという。その証拠にゾウのグッズまで売られていた。8代将軍徳川吉宗が関わった象ブームが起きるきっかけ、それは長崎から江戸まで象を歩いて持ってきたこと。到着までにかかった日数は64日。この長いあいだに多くの人が象を目撃、象の名前とその姿が刻み込まれたそう。
とありますが、ネットでも説明の記事があります。

八代将軍吉宗が江戸に呼び寄せた象 享保の象 長崎から江戸へ

個人的な疑問でしたが、神社などで社殿、お寺の建物で木鼻(きばな)というところがあります。木鼻について

どうして、最初は簡素な物からリアルな象のような形の物が造られたのか疑問に思っていました。
番組では象がブームになったとのことですが、これだという気がします。昔は馬を奉納するのが代用で絵馬になったように、象を奉納したいが出来ずに木鼻の象になった可能性があります。最初の頃はおじいさんかおばあさんが孫に昔はこの近くの街道を象が通ったんだよと木鼻の象を使って説明したのが、その後、象は動物図鑑や動物園でもみられるし、廃れていき、現在では何のことかわからず残っているのかもしれません。この説はちょっと怪しいところがあります。東照宮はもう少し古そうで、時代的には合っていません。象ほどの鼻の長さが無いようにも見えないこともないので可能性はあります。



2018年9月19日水曜日

和泉

「イズミ」と読みます。大阪府泉北地域に和泉市があります。
地名の和泉ですが、和泉国があった所です。もともとは泉であったが、好字令により国名を2字にする必要から「和」をつけ、「和」は読まないということです。
ここで問題は、
1.なぜ、この地が泉と呼ばれたのか
2.なぜ、好字令で「和」が選ばれたのか
ということがあると思われます。
歴史の中の石造物 ー人間・死者・神仏を」つなぐー、山川 均著、吉川弘文館発行
をみての単なる思いつきです。
この石造物の本ですが、第1章の慶政《けいせい》と石塔のところに注目です。20頁に

 慶政は日本で最初に石造宝篋印塔を創出した人物である。宝篋印塔とは、基礎・塔身・屋根・相輪からなる中国起源の塔形で、屋根の四隅につく耳状の隅飾りと呼ばれる突起が外見上の特徴である。石塔以外にも、金属塔や木製塔がある。「宝篋印塔」という名称は、塔身に宝篋印陀羅尼という経文を納めたことに由来する。・・途中省略・・
 前記したように、石造宝篋印塔は中国起源である。しかし、その宋代における分布範囲は、福建省泉州から厦門《アモイ》にかけての沿海部で、中国大陸全体から見ると非常に狭い範囲にすぎない。一方、当時我が国から中国に渡った僧侶の活動範囲は、その大半が浙江省《せっこうしょう》寧波《ニンポー》を中心としており、福建省まで足を延ばす者はいなかった。この時代の日中交易の正式ルートは博多ー寧波間であり、また、同地には阿育王寺《あいくおうじ》や天童寺《てんどうじ》などの著名な寺院が存在したため、わざわざ福建省まで行く必要がなかったからだ。
 こうした状況下で、慶政は福建省泉州に滞在したことが文献から明らかになる唯一の僧侶である(「波斯文文書」)。当時の泉州は、マルコポーロが「東方見聞録」中でアレキサンドリアと並び称したように、東南アジアや西アジア、さらにヨーロッパの人や物が行き交う、アジア最大級の貿易港であった。慶政は僧侶としての立場だけでなく、九条家の一員としても、この地に興味を抱いていたのだろう。

と書いてあります。慶政は九条道家(鎌倉幕府第4代将軍頼経の父)の兄とされます。
 時代が違いますが、古代に、中国泉州と和泉が何らかの交易関係にあり、泉に対して中国の泉州が頭にあり、日本の泉州であることから和泉となったのかと妄想します。問題1・2の答えに繋がります。これは遣唐使の南海ルートに和泉が関連していた可能性があることを示しているので、まだまだ証拠不十分ですが、これから考えていきたいと思います。
宝篋印塔

追記:2018.10.02
「大阪春秋」和泉市特集号、今年度の夏号ですが、和泉の地名由来が書かれていました。
JR和泉府中駅から東へ5分のところに泉井上神社が鎮座している。この神社は平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に見える古社の一つで、本殿北側に大阪府指定史跡の和泉清水(いずみしみず)があったという。和泉の名のもととなったという。
とありました。実際に泉があったとのことです。そうだろうなとは思いました。もう少し考えてみたいと思っています。

2018年9月18日火曜日

日本列島 人々の起源探る 新たなプロジェクト開始へ

NHKのニュースで放送されていました。

リンク

旧石器時代から現代までの人々の遺伝情報を解析することで、日本列島に暮らしてきた人々の起源を探ろうという新たなプロジェクトを、国内の複数の研究機関と大学が共同で始めることになりました。
チームでは、旧石器時代や弥生時代などの古代人の人骨からDNAを取り出して遺伝情報を解析し、日本各地に住む現代人500人と比較するほか、海外のデータとも比べることにしています。

とのこと。
5年後が楽しみです。

2018年9月12日水曜日

奈良の墨


 奈良では古くから墨作りが行われ、国内のシェア9割だそうです。律令時代から引き継いでいるにかと思いました。しかしそうではないようです。奈良で古い店で創業1577年とのことで、奈良時代ではありません。菜種油を燃やして煤をとり、にかわで練ります。型をとって乾燥させるそうです。これが油煙墨(ゆえんぼく)。もともとは松を燃やして「すす」を採り、これを松煙墨と言い、古来の墨を作り方で、油煙墨の方が黒く品質が優れていたようです。律令制で文字の保存が必要になり、その結果から、和紙や墨で古代を追っていけるかと思いましたが、難しいようです。興福寺とかで仏教のお経とかの需要が多く、奈良の産地が残ったようです。
墨ー奈良市

2018年9月10日月曜日

越前和紙

美濃和紙から越前和紙を思い出しました。
日経新聞で、ぐねぐね屋根の謎の神社の記事があったところです。
次ページ
記事読めなければすみません。
岡太(おかもと)神社・大瀧神社というところで、
紙祖神(紙すきの神)をまつり、近くに和紙の里公園とかあるようです。どこまで信じられるか不明ですが、古いようです。岡本でないところが興味あります。近くの川も岡本川だったと思います。太いで「もと」と呼んでいますが、なぜかはわかりません。
写真などは
越前和紙 1500年の伝統 にあります。

2018年9月9日日曜日

美濃和紙

 美濃和紙は中世に濃紙《のうし》。薄白《うすしろ》とよばれ、障子紙・扇の下紙・草子紙として重宝され、現在は文化財の補修などにはかかせないものとなっている。地域の特産品だろうと思います。地域の特産は、その時代に需要と供給がマッチして生まれるもので、古い時代に紙が重要になった時、つまり律令制の時代になり、文字で管理する必要が生じ、いろんな多量の文字データの保存が考えられたはずです。最初は木簡だろうと思いますが、扱いにくくて、代わりに和紙が求められたものの、都の付近では生産が出来ず周辺地域で渡来人の指導のもと和紙の生産が考えられ、これが美濃和紙のもとになった可能性はあるのではと思いつきました。
 
いつも参考にする「岐阜県の歴史散歩、山川出版」をみました。
美濃市蕨生には美濃和紙会館があり、その北西にあたるところに集落上野《かみの》があり、対岸の御手洗《みたらい》とともにかっては和紙生産の盛んなところで、上野には太田縫殿助信綱《おおたぬいとのすけのぶつな》が1173(承安3)年に牧谷にきて紙を漉きはじめた。また御手洗には、羽場蔵人秀治《はばくろうどひではる》が810(弘仁5)年に牧谷で製紙をを始めたという伝承が残っている。

とのことです。残念ながら律令の時代からは一世紀は遅れているので、この話は成り立たないように思われます。
ですが、それほどトンチンカンな話でないようで、アップしました。

2018年9月5日水曜日

飛鳥時代の仏教と寺院造営

「入門 歴史時代の考古学、近江俊秀著、(株)同成社発行」
を見ています。考古学の研究史を踏まえながら、いかに文字資料と向き合っていくかとのことで、最初の章の話です。
 石田茂作は、仏教が飛鳥や斑鳩から全国に拡散したとして、瓦の文様と寺院の伽藍配置の形式を調べ、クリアにしたが、実際にはその後の発掘調査などで多様な伽藍形式があることがわかったということです。一つの系統から拡散したものではなく、蘇我氏から広まるのに加え、厩戸王一族(上宮王家)ももまた仏教の担い手になったらしく、また地方でも独立した別系統のものもあるようです。
 誤解しているかもしれませんが、この時代のグループが、戦国大名の治める領国のようなものでなく、まだら模様にいろんな地域が結びついていたように思えます。つまり天皇をトップにしてはおらず、それぞれの地域をモザイク状にグループ化されていたのかとも思います。仏教が公伝したとしても、基準化されることなく、それぞれの地域で自由に取り入れられ、多様な伽藍形式・瓦の文様になったということでしょう。公伝の時の年号など何年かとかあまり意味がないように思います。
 現在、七堂伽藍が整えられた最古の寺として飛鳥寺が考えられているとのことです。百済からの工人の指導の下に建てられていて、基壇なども朝鮮半島由来のもののようです。一方、塔の地中深くに埋められた新礎の上から出土した舎利荘厳具は、馬具や短甲が含まれるなど後期古墳の埋葬品と何ら変わらないことがわかった。つまり、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺には、渡来の技術と日本の古墳文化の融合がみられたのである。と書いてあります。
 これは、クレオール的な話になっています。古墳文化と渡来系の文化の融合というか衝突のようなものが、この時期に起こっていますが、文字を取り入れて、古代のアイヌ語と朝鮮語がぶつかり、日本語の基礎が形成されたことと一体の話のように思われてきました。傾向的には合っています。

2018年9月3日月曜日

「DNA追い古代人に迫る」の記事

日経9月2日朝刊の記事にありました。
有料記事でデジタルの新聞では詳しく読めないです。
ほかのところに関連する記事がありました。
縄文人、ルーツは東南アジア? 金沢大など、人骨の全ゲノム解読

約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

とのことです。
日経記事では、東南アジアについてもう少し詳しいです。

その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。

とのことです。
解析の古人骨のあった伊川津貝塚の場所ですが、渥美半島のところです。日経記事ではラオスから日本へやってくるのに、海洋ルートか朝鮮半島経由か?としていますが、直感的に、黒潮の海洋ルートでやってきた気がしました。
人の移動は海洋ルートが主であったかもというメモです。

2018年8月31日金曜日

飛鳥時代とは

聖徳太子が存在しないとすれば、飛鳥時代とは何かということになります。
倭国の中心は吉備の国にあり、その後、前期難波宮に移ったとして、飛鳥の地をどう考えるかということになります。
吉備の国が中心とすると、現在の明日香村は周辺の地域に思われます。飛鳥地方に変わった石造物が残っています。七世紀頃のもののようですが、日本では通常見られない造形のもので、その時代のみでその後は廃れてしまいます。朝鮮半島由来の土俗信仰に基づくものか?ということです。これを考えると、朝鮮からの渡来人は倭国の中心に住居を構えることは難しく、周辺地域に配置され、文化習慣が違うので集団で住んだのではと想像します(イメージは現在の横浜や神戸の南京町)。また山に近いところなので、農業生産力があまり無さそうなところです。それ以外のこと、たとえば工人集団として、物作りで生活する必要があります。その一つとして石造物が造られたのではと思います。多くは花崗岩で硬く、当時としてはレベルの高い物のようで、軟質の凝灰岩製ではないようです。
 また近江大津宮というところがあった地域で、大津北郊域の住居跡には床暖房のオンドルなどを持つものが見つかっています。この地も琵琶湖西岸で農業生産力が無さそうな地域ですが渡来人一世の配置された地域に思われます。朝鮮からの生活習慣を持ち込んだオンドルなども二世の時代には廃れたことは、飛鳥の石造物も日本の中では受け入れられずに廃れたということと同様だと思います。微妙な地域差もありそうです。

飛鳥寺の場所(チェックマーク)緑に示された際にあるように思います。都があるような所には思われません。

2018年8月12日日曜日

阿蘇ピンク石製石棺

古墳時代の生産と流通、和田晴吾著、吉川弘文館発行
この本に阿蘇ピンク石が載っています。その少し前からの抜き書きです。
古墳時代後期のところから

①古墳秩序の変化
 古墳時代後期(五世紀後葉~六世紀後葉)に入ると、古墳の築造状況に大きな変化が現れた。中期に偉容を誇った大型前方後円墳やその古墳群が急速に衰退・消滅する一方で、新たな墓域に中小の前方後円墳が築かれだすとともに、これまで首長の下にあって、弥生以来の伝統的な墓制(方形周溝墓や方形台状墓。一部に円形)を採用してきた共同体上層部の墓が一斉に円墳化するのである。群集墳と呼ばれる小型の円墳群が広汎に出現したのである。中略。五世紀末から六世紀初頭ごろを中心に、王権は大きく動揺し混乱したのである。この状況が克服され、中央集権的体制づくりが本格化しだすのは、後期中葉後半(六世紀第2四半期)からのことである。(和田二〇〇四)
②埋葬施設と棺の変化
 ところで、この変革期には、古墳の埋葬施設関係にも大きな変化が起こった。前期以来の長大な竪穴式石槨や粘土槨が衰退し、中期を代表した長持形石棺が消滅する一方で、畿内でも新たに伝わった横穴式石室が定着し、内部に家形石棺という新形式の棺を配置する墓制が生み出されたのである。
(2)阿蘇ピンク石製石棺
 まず石棺では、阿蘇ピンク石製石棺が作り出された。阿蘇石といえば、これまでは灰石が用いられてきたが、この時期には熊本県宇土市産するピンク石(地元では馬門石と呼ぶ)が開発され、刳抜式石棺が作られた(渡辺ほか一九八九)。最初は舟形石棺として作られ、竪穴式石槨の中に納められたが、まもなく新来の横穴式石室に納められるようになると、石室の平らな床にあわせて棺の底が平面化するととみに、すべての稜線が直線化した。この形態が家形石棺である。
 この石棺の最大の特徴は、その分布にあり、製品が地元に一例もないのに対し、舟形石棺は奈良県東部に四ないしは五例、大阪府の古市古墳群に二例、岡山県に一例、家形石棺は奈良県に二例(一例は後期後葉)、滋賀県に三例(一例は推定)も出土しているのである。石材産地は九州であるが、突起をはじめとする蓋の形式は畿内的で、使用地も畿内であることから判断すれば、この石棺は、畿内の意図のもとに九州で作られ、畿内まではこばれたと考えられる。竜山石を利用できない、奈良県東部を中心とする畿内の一部勢力が、石材を九州に求め、長持形石棺とは異なる独自の型式の舟形石棺・家形石棺を作り出した可能性が高い。この時期、畿内の一部勢力はそれだけ九州の有明海沿岸勢力と強いつながりをもったのである。しかし、王権が安定し、竜山石が再び利用されだし、新たに二上山白石の開発が始まると、阿蘇ピンク石製石棺は衰退する。ただ、この石棺の下で生まれた家形石棺の型式は、後の畿内的家形石棺の基本形となった。

とあります。この本の少し前のところに、古墳時代の前期のところで、石棺が遠くから運ばれるのには、石棺の被葬者がその製作地の一族または近い関係の人でなかったかということが述べられています。つまり阿蘇のピンク石製石棺の被葬者は阿蘇の出身の人ではないかということです。阿蘇からこれらの地域に移住した人は遣隋使の前の頃と考えると、阿蘇山の噴火で避難した人たちに思えてきます。このあたり妄想になります。吉備の地区の「あそ」だけでなく、各地に移住したと考えられます。阿蘇から移住し、のたれ死にした人は痕跡は残りにくいですが、功成り名を遂げた人はお墓が出来ます。生まれ育ったところに埋葬されるのが理想ですが、その子の二世の代では墓参りが大変で何とかしたいと思うでしょう。阿蘇山を持ってくるわけにはいかないので、その一部の阿蘇のピンク石製石棺を持ってきて、埋葬する事で我慢してもらおうということです。三世の時代になると、そこまでの思いがなくなり、大変な労力を要するので、近くの竜山石で良いだろうとなり、継続しなかったと思います。ここでピンク石製石棺の分布ですが、私には岡山県が少なく、離れた地域に多いように思われます。つまり、阿蘇から避難してきた人で必要な人は吉備国、それほでない人は周辺地に配置されたように見えてきます。つまり倭国は吉備が中心であったことを間接的に示しているように思われました。この考え方にまだまだなところはあります。古墳前期にも阿蘇灰石が畿内に運び込まれています。この時は阿蘇山の噴火と言えないように思われますので(しょっちゅう阿蘇山が噴火するとは考えられないので)、人の移住がどのように行われたか想像できず、思いつきの話ではあります。

2018年8月10日金曜日

牛の歴史

 馬は古墳で良く出てきます。一方、牛はどうだろうかということですが、牛は六世紀に日本に入ってきたので古墳の時代には関係ないようです。牛についての本はあまりありませんが、たまたま図書館で見つけた
人と動物の日本史2 歴史の中の動物たち、中澤克昭編、吉川弘文館
の中の「農耕と牛馬」のところが面白かったので抜き書きです。
 その前に、明治時代のものですが、東の馬、西の牛とのデータがあります。この七頁・八頁の図です。これを見て、いろいろな東西の日本の違いの分布の一つと考えられますが、単純なものではなさそうです。先の本では牛馬の東西の分布にいたった紆余曲折が詳しく書かれています。

『魏志倭人伝』が倭の地には牛馬なしと伝えているように弥生時代から古墳時代初めの日本列島には牛も馬もいなかった。五世紀になって大和政権が朝鮮半島から軍事用に馬の導入をはかり、その後、倭の五王の使節が中国江南地方から馬鍬を持ち帰った。牛はまだ飼われていなかったので、馬鍬を馬に引かせることになって、馬の農耕利用が始まった。これは福島県を境界領域として関東以西に広まった。六世紀には大和政権や地方首長に招かれた渡来氏族が朝鮮半島から生活用具として牛を持ち込み、彼らの居留地で牛に犂を引かせた。これが日本列島の牛耕の始まりで、この牛を持ち込んだ渡来人は畿内・西日本に多くが分布していたと考えられ、これが「西の牛」の起源となる。七世紀には大化の改新政府が唐に対抗する殖産興業政策の一環として中国系長床犂の普及政策を展開、政府モデル犂を評督となった地方首長に配布した。この政策を拒否できなかった西日本では犂耕の空白地帯がほぼ姿を消すことになるが、大和政権の支配力の弱かった東国では、長床犂普及政策を無視する地域もあったようで、この東西の差が牛馬耕の西高東低状況を基本的に形づくったと考えられる。その後、百済・高句麗の滅亡にともなう難民が日本列島に渡ってくるが、政府は彼らを中部・関東地方に配置した。難民は牛を連れてくる余裕はなどなく、牛の入手が困難な東国では馬に犂を引かせた。これが東日本の馬耕の起源となる。平安時代以降は、蝦夷の馬の受容によって東北地方が馬産地になったこと、中部・関東地方は武士団の勃興とともに牛から馬へのシフトが起こったこと、これとは逆に西日本では田堵=一般百姓の成長とともに馬から牛へのシフトが起こったこと、これらが中世を通じて進行して近世を迎えるころには「東の馬、西の牛」という分布ができあがっていた。近世では加賀藩・薩摩藩などで馬耕の奨励がおこなわれ、牛から馬へのシフトがみられた。土佐藩や北九州諸藩でもそうした動きがあったと推測され、西日本の牛地帯にも馬優位の地域が混在することになる。近代に入ると福岡県の馬耕教師が全国に派遣されて乾田馬耕の普及をすすめた結果、犂を使っていなかった東北地方が馬耕地帯となり、中部・関東地方に点在した鍬《くわ》耕地帯にも馬耕が普及した。満州事変からアジア・太平洋戦争の進行にともなって軍馬の徴発がすすみ、馬の代わりに牛が導入される地方も見られた。これらの牛馬は、戦後の食糧難を克服する過程で大きな役割を果たしたが、一九六〇年代以降の農業の機械化の中で姿を消し、五世紀以降の牛馬の農耕利用の歴史の幕を閉じた。

とのことです。丸写しになりましたが、西日本は大まかに馬→馬と牛→牛、東日本は馬→遅れて牛が導入され馬と牛→また馬に戻るようです。単純な東西分布では無いようです。大化の改新政府とかはなかったという(私の考え)のと整合性が必要ですので、もう少し考える必要があります。
 牛と犂は朝鮮半島からということで、渡来人がどこに持ち込んだのかということがこの本に述べられています。牛に犂などを引かせるのに首木《くびき》を用いる。関西では牛の首にひもで取り付ける形式である。ところが紀伊半島の首木には牛の首に両側からはさむ首かせ棒がついている。これが朝鮮半島の形式なので、この地に渡来人が持ち込んだと考えられる。この地ではこの農具をオナグラやウナグラと呼んで、ウナ+グラで、ウナジ(首筋)に置いたクラ(鞍)の意味で、鞍は背中に置くが、なんと首に置くのかとの驚きがあったという。鞍は背中に置くという先入観を持っていたので、馬や馬鍬よりも後と推定される。ウナはウナズク、ウナダル(うなだれる)、ウナガスなど首筋に関する言葉で、日本書紀ではすでにウナジであり、ウナは六世紀と推定しています。この首木をウナグラと呼ぶ地域がもう一カ所、山口県東部の周防地方である。この二カ所のみが、中国や朝鮮と同じ首引き法という牛の胴体を利用しない方法を残していること、ウナグラという古い時代の言葉を伝えていること、この地域が朝鮮からの伝統を守り続けたのはなぜかということです。この地域の室積湾が、天然の良港であり、ムロツミ(館)が古語で客館を意味し、迎賓施設あった可能性があり、遣隋使の返使の裴世清来たときの秦王国に関係すると考えられる。外交に関わる場所で、通訳としての任務が求められたことで、朝鮮語を使い続けるために、その環境を残したとのことである。私の今の理解では江戸時代の長崎のような外国との窓口のようなところだったのだろうと思います。
 鎌倉時代、東大寺大仏殿の再建の時、近畿地方では木材の調達ができず、この地方から輸送した話を思い出しました。その時は唐突に思っていましたが、今思えば、農具が伝わったのが、二カ所の一つ、木の国(紀伊国)で、もう一つの周防も実質木の国であって、海外に向かう木造船を古い時代から作っていた実績があって当然のように思えてきます。

2018年8月3日金曜日

遣隋使のストーリー

 遣隋使が可能な条件として、途中の交通路と通訳(当時の日本では中国語が話されておらず、おおよそアイヌ語の古語であったと思っています)が必要に思われます。そのきっかけを考えてみました。
 まず阿蘇山の噴火があります。この地にいた渡来系の人たち(かなりの複数)は、どこかに難を逃れることを考えると思います。生産力に余裕のある地域として近くには見当たらず、吉備国にやってきたのではないでしょうか。五月雨式に吉備国に移住し、「あそ」の集落を作り、そこで鍛冶や焼物などの技術を伝え、地域の発展に貢献したと思われます。吉備国には生産余力があり、受け入れることが出来たのだと思います。この時に、吉備の首長は、避難してきた交通路を用い、おそらく渡来系の人の中に当時の中国の人と会話能力を持った人がいて、通訳として遣隋使を派遣することを考えたのだと思います。返使として裴世清がやってきた道中などで、通訳の人との間で出自が話題となり、阿蘇山がでてきたと考えられます。返使には山が噴火することの知識がなく、強い印象が唐側の記録に残ったのでしょう。阿蘇の人たちがきっかけとなり、倭国の首長が使いを送ることを考え、移住してきた人のノウハウ(まだ倭国と認識されていなかった中間地の国々との宿泊の交渉など)を頼ることができたからと思えます。本当に思いつきで、阿蘇山の噴火がその当時あったのか、移住したとしてその痕跡があるのかとか、まったく無いので、証拠探しが必要です。しかしありうる話と思われます。

2018年8月1日水曜日

古墳時代のイメージ

あくまで個人的な理解です。
古墳時代は、吉備か畿内かの地域で始まったと思います。鉄器など用い、ある程度の規模の水田が開発され、生産力拡大により、大きな集団がまず成立しました。生産余力があるので、近辺も開発され、水田の造成しやすい所に拡張されていきます。おそらく、ある程度の人手を集中して棚田などが開発されていき、稲の生産が順調井なれば、また遠いところへと延伸していき、地理的条件の良いところ(扇状地の根元などか)ではより大きな水田が開発されていったと考えられます。生産力の大きいところでは、開発のリーダーである首長が死ねば、祀るか業績を顕彰することで大きなお墓が作られたと思います。それが前方後円墳にあたるもので、巨大な労力を要し、人力だけでなく、馬などの家畜を利用し、おそらく棚田が開発されていたと思われるので、階段状の棚田をイメージし、技術的には吉備か畿内の技術的な支援を得て造成されたと想像します。その時には、各地域の棚田が村として成立し、ネットワークが完成し(石棺などの大きな物も運送できるネットワークになっていた?)、人の移動が容易になっていたと思われます。これは空海が高野山と京都を移動するのに、観心寺・大和飛鳥の川原寺(弘福寺)・東大寺・東寺と中継ポイントを作って、食料と宿の確保を容易にしたことから、類推されます(観心寺の出来た理由)。棚田の生産性が低くてもネットワークの維持ということで、違う価値観で棚田が存在できたとも考えられます。古墳時代の画期は、馬を利用することで人力から棚田開発のレベルを上げたというイノベーションにあると思えます。牛馬による開発と思っていましたが、牛については骨などが発掘されていないようで、いつ頃に導入されたか不明ですが、馬については馬具が古墳で見つかるので確実であろうと思われます(1より)。
時代的にはいつかわかりませんが、鉄器の存在も大きいと思われます。今でも包丁を使っていると切れ味が悪くなってきます。研ぐことになりますが、古い時代に良い砥石がなかったのではと思います。鉄器をメンテするには、焼鈍しでまず軟らかくして、刃の修正を行い、そのままでは長く使用できませんので、焼入れで硬くして使用します。熱処理をして修正しながらでないと継続的に使用できません。鉄器の利用し続けるには職人的な人を必要とします。最初は商業ベースの鍛冶屋さんはいませんので国家的な集団の中で確保しなければならなかったと思います。古墳時代には鉄器の継続使用のシステムが完成していたと思われます。
またネットワークの発達で、人の移動が活発になり、言語的には日本語の元となったアイヌ語の古い時代のものが広い地域に成立したことも想像させます。ついでですが、古墳時代からその後の条里制の律令制の時代への変化ですが、文字の導入がイノベーションになったかもしれません。(農地開発の何らかの技術革新が何かあったはずです)。渡来人が文字を持ち込み、人数的には比率は小さかったものの影響力は大きくて、アイヌ語の祖先と朝鮮語の祖先の言語が衝突して日本語の最初のものができたと考えます。条里制の時代に牛が導入されたことが画期となった可能性もあります。後の「東日本の馬、西日本の牛」ということにつながっているかもしれません。平安時代には牛車であって、馬車ではありません。どうも農村には牛がいるイメージが私には強くあります。午の字を「うま」と理解しますが牛から角をとったことからと聞いたことがあります。昔、うま小屋と聞いて、馬がいるのかと思ったのが、実際は牛であったことがありました。牛と馬が同じようなものと考えられていたのか、それとも最初は馬だったのが、後に牛に変化したからかもと考えられますが、千数百年前に遡る話になるのかとも思います。まだまだ大雑把で、多分あちこちに間違いがあるはずですが、現在の古墳時代のイメージです。

1.列島の考古学 古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社

2018年7月30日月曜日

山田・山本の再考

 以前に、山田について山本の田んぼであると言ってましたが、間違いかもしれないと思うようになりました。
棚田学入門、棚田学会著、勁草書房発行の第2講に棚田の歴史について述べられています。
棚田のはじまりで、歴史についてはまだ十分に解明されていないものの、傾斜地での水田造成そのものが、弥生・古墳時代まで遡ることは間違いがなく、棚田という語は、南北朝期に初出するものの一般的ではなく、棚田よりも山田の方がはるかに昔から表現されていて、万葉集などに山田に関する多くの歌が収録されているとのことです。「山田」の史料は、平安期にはかなあり検出できるともあります。
 やはり、素直に棚田のことを山田といったと考えた方が良さそうです。山本と山田では、山本の方が古いと思われますが、山本→山田というのは、山本の田んぼが山田というのは考え直さないといけないようです。山本も山の麓の意味と考えれば、傾斜の緩やかな棚田を表すと言えなくもありません。最初は簡単に造成できる所から水田が開発され、土木工事のレベルが上がって傾斜のより急な部分を含めた山田という棚田になっていったかもしれません。
 江戸時代以降に開発された棚田も記録に残っているようですが、最初に棚田が開発され、その後、条里制のような大規模の開発につながった可能性もあるように思われます。岐阜県に安田が多いのですが、山田も多いので、水田の開発が急激に進んでいて、かなり同時期的に開発されたように思われ、時代を細かく見ていく必要があるように感じました。
以前の話は
名字:山本・山田(再)

2018年7月27日金曜日

佐那河内村

 棚田の本を見ています。全国棚田ガイドTANADASという棚田の紹介の本からの引用です。村名が神話につながる棚田の村ということで、府能地区が紹介されています。

佐那河内村は徳島市の南西に隣接する県内唯一の村である。日本の棚田多しといえども、村の名称が”棚田”に通じる意味を持っているのはおそらくこの佐那河内だけではないだろうか。
 この村の古地名は「佐那縣《さなのあがた》」「狭長村《さながむら》」という。「日本書紀」」神代記には、高天原で天照大神が御田としたのが「天狭田《あまのっさなだ》・長田《おさだ》」であるという。佐那縣の「佐那」は「天狭田」と同じく「棚田」を表す言葉である。
 また、「古事記」の天孫降臨条には「手力男神《たじからおのかみ》は佐那縣に座す」と記されているが、村西方の牛小屋地区には三社さんと呼ばれる「天岩戸別神社」が祀られ、主祭神は天手力雄命《あめのたじからおののみこと》」なのである。佐那河内村の原点は棚田にあり、日本最古を示す地名といえそうだ。

と書いてあります。日本書紀では、「狭い・長い」ということから形状を考えると棚田のことであろうと考えられ、田の原型が棚田であるという認識を当時の人は持っていたと思われます。この本では、棚田が江戸時代に開発されてこととか、昭和の時代になって開発された棚田もあるようで、棚田であれば、古い時代にさかのぼれるというものでもなさそうですが、私にとっては、佐那+河内と考えられ、河内の勢力がこの地域の棚田開発を行ったことが想像されます。
以下は、地名辞典からの引用です。
佐那河内「さなごうち」、「さながわち」ともいう。約70パーセントが山地で平地に乏しく、わずかに河川に沿う谷底平野や河岸段丘からなり、東西に細長い盆地状を呈する。耕地は山地斜面にも散在し、村域は県下有数の地滑り地帯となす。地名については「阿波志」は佐那河内守なる人物の所領であったことにちなむというが、未詳。
また寛平年間に名方郡が名東《みょうとう》・名西《みょうさい》の2郡に分かれたとき名東郡に属して佐長村と称したとも伝える(佐那河内村史)。とあります(角川日本地名大辞典36徳島県)
徳島県の地名、日本歴史地名大系37の中、名東郡の項には、遺跡としては根郷塚古墳のみ記されていて、古い時代のことは良くわからないようです。

2018年7月26日木曜日

田烏の棚田

 小浜市にある棚田で、最初は知らずに田鳥《たどり》と読んでいました。平成6年の碑文によれば、圃場整備されたとのことです。農作業が大変で、農道整備とか土地改良に踏み切ったとあります。車が入れるように整備されて、すっきりした棚田になっているように感じます。



角川日本地名大辞典18福井県に

田烏(たがらす)小浜市
若狭湾の内湾である田烏湾に面して位置する。中世では「多烏」と記される。田烏湾の沖合に沖の石があるが、「千載集」所載の「わが袖はしほひに見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし」は二条院讃岐がこの地にわび住まいしていたことから、この沖の石を詠んだものと伝える。古墳中期から奈良期~平安期の土器製塩遺跡が点在し、傾遺跡《かたぼこいせき》をはじめ、大浜・須浦《すのうら》・谷及《たんぎょ》・釣姫《つるべ》・湯ノ脇などの遺跡がある。

とあります。棚田は、開発するのが大変で、生産性が低く、普通は成立しません。何らかの事情があると思います。田烏の棚田の現在は半農半漁ですが、古代には製塩で成立した地域であったことから、棚田が成立した可能性はあります。もちろん交易の可能性もあります。
 福井県の歴史散歩には、小浜市の隣町の若狭町の安楽寺の記事があります。

国指定の重要文化財の木造聖観音立像が安置されており(秘仏)、ヒノキの一木造りで平安後期の作といい、顔や衣紋は穏やかに表現され、若狭の仏像の中でも評価が高い。この仏像を安置したのが、小野道風の祖父である篁《たかむら》と伝える。篁は遣唐副使に任じられながら、大使藤原常嗣と争い、病と称して行かなかったため、承和四年(八三七年)に隠岐(現、島根県)へ流罪となった。のちに、赦免されて都に戻る途中、海路強風のため若狭田烏の浜に漂着したという。上陸後、田烏から海士坂《あまさか》峠を越えてこの無悪《さかなし》集落に入り、しばらく休養のため滞在した。その際、隠岐から持ち帰った観音像をこの地に安置したという。

 無悪は、地名辞典では、一の坪・二の坪などの条里制の名残と思われる地名が存在し、町文化財の条里起点石と伝えるものが残る(若狭かみなかの文化財)とあります。
数多くの町文化財があると書いてあるので、文化が集積しやすい場所であったように感じます。

2018年7月24日火曜日

阿蘇石


 列島の考古学、古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社の「吉備の古代古墳」の項に阿蘇石が出てきました。以下二七頁から抜粋。
 河内の巨大古墳とよく対比されるのが、吉備の二つの古墳である。それは造山古墳(三六〇メートル)と、作山古墳(二八六メートル)で、五世紀前半と中葉に連続して築かれた。どちらも「つくりやま」なので、「ぞうざん」「さくざん」と呼ぶことが多い。現在は周辺が吉備路風土記の丘として整備されている。
 この二つの古墳の内容はあきらかではないが、造山古墳では、前方部に置かれた刳抜式《くりぬきしき》の石棺の身は阿蘇石でつくられている。古墳の南に隣接する千足《せんぞく》古墳(七〇メートルの前方後円墳)の、肥後の石室に似た特徴の横穴式石室とともに、九州に関係する要素に注目できる。・・・とあります。
 文面から、この阿蘇石は、阿蘇山の石のように思われます。吉備の勢力と阿蘇とは古墳時代からつながりがありそうです。
 またこの本では、二八頁に
 朝鮮半島と同時に九州と、またヤマト王権との関係を維持していた吉備の勢力は、瀬戸内の海上交通の要衝に位置する地理的優位性を十分活用していたことがわかる。・・と書いています。
 吉備国が倭の中心であって良いように感じました。

2018年7月20日金曜日

内藤と藤内

 名字で、前後逆のものがあります(上下か?)。お墓で「藤内」という名字を見つけました。「内藤」の横にあり、家紋も遠目には「違い鷹の羽」のようで同じに見えます。
内藤→藤内となったように思われます。田安という名字も安田が反転した可能性があります。

2018年7月18日水曜日

栃木県の安蘇

 下野国安蘇郡の地名です。平凡社歴史地名大系9栃木県の安蘇郷には万葉集の歌から麻を産する地域であろうとしています。680頁から範囲として県の南西部に位置。現在(出版時)の安蘇郡は東は栃木市・上都賀郡粟野町、南は佐野市・下都賀郡岩舟町、西は足利市、北は群馬県桐生市・勢多郡東村と接する。とあります。古墳時代の話として、当地域最古のものと思われる五世紀前半から中葉にかけての築造とされる佐野市堀米町の八幡山古墳がある。また古墳群も多く見られとかいてあります。それだけならなんということもないのですが、栃木県には河内郡というところもあります。現在の河内町は宇都宮市に近いところにあります。吉備国にあるものとこの安蘇郡、近畿地方の河内とこの地の河内町と関係がありそうに思われてきました。栃木県の安蘇郡は県の西側、河内町は県中央部にあり、古い時代に、吉備が中心であり、それが河内に変わっていったとすると、最初に安蘇郡が発展し、その後河内郡が発展していくこと(西の地域から東に移動)に対応しています。日本各地に前方後円墳が作られますが、計画・基本設計や実際のノウハウ的なこと無しに一から作るのは難しいと思います。築造には大まかには現地の人ですが、中央からの古墳築造の専門家集団が必要とされ、その指導の下に作られたはずです。こういった人たちが集まった場所が安蘇・河内の地名となった可能性はありかと思います。これは、古墳時代に地名があったかは定かではなく、律令制の開始時期の方が整合性あるので、今のところは確としたものではありません。
 ついでですが、茨城県にも河内郡《かっちぐん》があります。この地域も何かしらの関係があるかもしれません。河内の地名は多そうで、すべてをチェックできそうにはありませんので、思いつきの話です。麻生の地名で麻の産地のような記述も見かけたので、断定はできませんが、意識していこうと思います。

2018年7月13日金曜日

厩戸皇子の名前

 聖徳太子のことですが、
日本書紀では、「成人なさると、一度に十人の訴えを聞いても、間違いなく聞き分けることがおできになり、さらに先々のことまで見通された。・・・」とあります(日本書紀②小学館、日本古典文学全集)。
 豊聡耳皇子ということで、名前からして聞く能力が高かったということだろうと思います。当時の人にとって、まだ日本語としての言語の生成期にあって、一対一の会話でも大変なのに、非常に優れた人だったということのたとえのように思われます。トップの人は聞く能力が強く求められていたということで、比較の対象が、現在のような普通の会話を基準にはしていなかったのではという気がします。

2018年7月11日水曜日

阿蘇の地名

 阿蘇の地名が一般的なものか角川日本地名辞典で見ました。「あそう」は省きます。「あそ」だけを見ています。「あそ」の地名はそれほど多くは無さそうです。隋から裴世清がやってきたときに、阿蘇山の噴火がその時にあったのでなければ、鬼ノ城にやってきた可能性は大きいように思われます。宮城県の「あそ」は栃木県から移ったとのことです。吉備の阿曽も阿蘇山の噴火のためにやってきた人たちの移動かもしれません。岡山県と熊本県の関係がわかりません。鉄鋳物の生産に意味があるのかもしれませんが、これは妄想的な話です。
 以下、「あそ」が見つかった巻のメモです。打ち間違いや、省略がありますが、おおよそわかると思います。
4.宮城県
  安蘇の郷<色麻町>[古代]平安期に見える郷名。・・下野国の阿蘇郷からの移民開拓が行われたと考えられている(地名辞書)。色麻が飾磨だとすれば、播磨国飾磨郡に由来するものである。だから安蘇も郷名と考え、これを下野国安蘇郡に結びつけることは妥当である。
9.栃木県
  安蘇郡 下野国・栃木県の郷名。県南西部の秋山川・旗川
流域に位置する。[古代]平城宮跡出土木簡に「安宗」と見え、当郡を指すと思われる。万葉集の例があり、歌枕とのこと。安蘇郷(佐野市)
13.福井県
  阿曽<敦賀市>西を敦賀湾に面して位置し、東背面の山麓は急崖から運搬された土壌が扇状地状をなす。地名は、往古天変地異か開墾などで土地が裸になったか、あるいは荒地化した土地に集落が次第に成立したなどの理由で生まれたのではないかという(敦賀旧町村地名考)。麻生(あそ)というところもあります。こちらは古くは「あそふ」とのこと。
20.長野県
  安宗郷《あそのごう》<上田市>[古代]平安期に見える郷名。「和名抄」小県郡八郷の一つ。高山寺本は「阿曾」、東急本は「安曽」の訓を付す。条里遺構の残った塩田地区に推定されている。
24.三重県
  阿曽<大宮町>紀伊山地と大台山地の山間。屈折しながら北流する大内山川の下流域に立地する。中央部は低平地。地内の神ノ木《こうのき》は文永五年に豊受皇太神宮第31回遷宮御料材の阿曽御杣となった(御杣山記録)。・・・
  阿曽<南島町>熊野灘に臨むリアス式海岸の1つ鷙湾の東端に位置する。当地の片山寺(臨済宗)にある雲板の裏面に「志州英虞(あご)郡阿曽御園 片山冷泉庵 文明六年甲午三月」と刻されており、当時志摩国であったこと、神宮の御園であったことを証している。・・
26.京都府
  阿蘇海《あそかい》 与謝郡岩滝町と宮津市にまたがる、天橋立西面の内海。「あそみ」で「遊の浦」の遊びからの説があるようです。
27.大阪府
  麻生とあるので省略。
28.兵庫県
  阿曽<太子町>揖保川支流林田川下流域左岸に位置する。[中世]阿曽村 戦国期に見える村名。
33.岡山県
  安蘇<美作町> 古くは阿曽・阿蘇とも書いた。「東作誌」に「近代安蘇の文字に改む、年号不詳」とある。地名の由来は鎌倉期北条氏の族阿曽弾正小弼が鎌倉を落ちて美作の当地に来住し阿曽と称したという(東作誌)。また一説には地内の阿蘇宮からともとある。
  阿曽(あぞ)<総社市>足守川中流右岸に位置する。古代には「あそ」と読んだ。当地では古くから鉄鋳物の生産が盛んで、中世には鋳物製品を吉備津彦神社や吉備津神社に納めることによって営業上の特権を得ていたものと思われる。吉備津神社の鳴釜神事に使用される釜は当地で製作されていたが、現在その技術は絶えた。
[阿曽郷]奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」備中国賀夜郡十四郷の1つ。高山寺本は「阿曽」、東急本は「阿宗」につくりそれぞれ「安曽」の訓を付す。正倉院文書や平城宮出土木簡の話があって・・・天平十二年にはすでに五〇戸一郷制へ移行しているにもかかわらず依然として里名を使用している点が注目される。(私には良くわかりません)郷域は、現在の総社市北東部の東阿曽・西阿曽一帯に否定される。
43.熊本県
  阿蘇<阿蘇町>阿蘇谷の西部に位置する。[古代]阿蘇郷 平安期に見える郷名。「和名抄」阿蘇郡四郷の1つ。高山寺本には「阿曽」とする。以下省略。

2018年7月9日月曜日

国名からの妄想

前回の続きです。
 阿蘇山が火山であると認識されていたことで、火の国から肥前・肥後国が出てきました。火があれば水です。近江の「ミ」は水の意味で、琵琶湖があり、水の国のイメージに思われます。紀国は木です。それで行くと、大和は山になります。山があれば川です。思いつくのは河内です。すると対応関係からヤマトの「ト」は外になります。山の外と川の内です。名前ができたとき、川が近くで山が遠くにあったことにります。倭国が吉備に中心があったとして、その時に国名ができたとすれば、大和と河内の位置関係は合っています。出雲は雲が出る方向なのかとか、吉備・阿波などどうしてできたのか、クリアで無いところがあり、まだまだ考えないといけないですが、倭国が吉備であるということと矛盾はありません(河内が中心と考える方が良いとも思えるので間違いかもしれません)。
大和と河内は昔呼んだ本にありました。
鬼ノ城で発掘された土器は七世紀後半の物のようです。どうも遣隋使の返使が吉備に来たというのは無理筋っぽいです。

追記:R01.08.10
吉備が倭国としても良いのではと思うようになりました、
案外、単純な名前のように思ってきました。
・火の国、肥前とか肥後とか阿蘇山があり噴火したことから。
・水の国、淡海(近江)、琵琶湖があるから。遠江はわかりません。
・木の国、紀国、木が多いから。
・ヤマト・河内、山とか川から。
紀国が追加されただけです。
阿蘇山の噴火がいつごろかがわかりません。
気象庁のページでは
553年(欣明天皇14)噴火?
とあります。かなりの信頼度が低いデータのように思われます。
有史以降も案外噴火があるので、記録にない時でも数多くあったと思えます。
国名がいつの時代かはこれだけではわからないようです。

2018年7月7日土曜日

遣隋使の話の見直し(倭国=吉備国?)

遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
表1の遣隋使関係資料、隋書からの抜粋です。日本書紀推古紀は無視します。
(1)開皇二〇年(六〇〇)(倭国伝)
  倭王が使者を派遣
(2)大業三年(六〇七)(倭国伝)
  倭王、使者を遣わし、沙門数十人に仏法を学ばせる。その国書で「日出ずる処の天子・・」で煬帝を怒らせた。
  大業四年(六〇八)(倭国伝)裴世清の遣使
  文林郎の裴世清を倭国に。朝鮮半島沿いに海路を進み、聃羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国を経て倭国の「海岸」に達す。・・・以下略
 ここで「秦王国」がどこかということですが、(厳島・周防?)とあります。後ろの資料集のところを見ると・・、また竹斯国に到り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。
と訳してあります。秦王国が詳しくは不明ですが、周防とはs音で始まり、また後に遣唐使船などの建造地でもあり、重要な地域でありそうなのかも知れませんが、倭国になってから詳細が省かれすぎています。秦王国が中国の夏の国に似ているように思ったのは、この国が発音などが朝鮮や中国に近いものに裴世清たちが感じたのかもしれません。日本語の形成期にあったことを想像させます。日本書紀に従えば、裴世清は難波津にやってきたということになりますが、倭国付近になってから十余国と、急にぼやけた表現になります。おかしいですが、秦王国から国名が一致しなくなり省略したとも思えます。聖徳太子や推古天皇がいなければ、難波津に来る必要がなく、たとえば、倭国が吉備の国であっても良いわけです。古墳時代に吉備の国に大きな前方後円墳があります。引き続き倭国から遣隋使を送ったとしてもおかしくはありません。
 倭国が吉備であった可能性はあるのかということですが、ありうると思われます。
岡山県には古代山城とされる鬼ノ城があります。図書館で借りてきた本(注1の本)丸写しですが、
8頁から
鬼ノ城は、標高三九七メートルの鬼城山の山頂付近に築かれた古代の山城である。鬼城山は吉備高原の南縁に位置するため眺望がよく、山頂を取り巻く遊歩道から南を見ると総社市街地から吉備津神社にいたる総社平野を直下に見下ろすことができる。この平野は古代吉備の国の中心地であり史跡も多く残る古代の重要地点である。また、平野の向こうには古くからの交通の要所である瀬戸内海を望むことができる。このように平野からの攻撃に対していち早く状況を見渡すことができるという立地条件のため、鬼城山は山城の立地として極めて優れているといえる。
58頁から
鬼ノ城は岡山県総社市奥坂に位置する鬼城山《きのじょうざん》に築かれた山城である。・・省略・・城壁は基本的に版築《はんちく》の土塁で築かれているが、一部石塁で築かれており、一般的な印章としては石城のイメージが強いようである。規模は城周二七九〇・八メートルで、城門が四カ所、通水口をもつ水門が五カ所、城内に礎石建物が七棟確認されている。築城年代に関しては、百済滅亡に関わる白村江の戦い(天智天皇二[六六三]年)を前後する七世紀後半ころと考えられている。・・特徴の説明があり・・最後に、城壁の内外床面の敷石である。このような例は日本の古代山城では確認されていない。朝鮮半島についてもほとんど知られていないが、稷山蛇山城の城壁の外側に見ることができ、百済後期の王城である扶蘇山城では城壁の内側に見ることができる。
43頁に戻り
古代山城のいくつかは「日本書紀」などの官選史書に記録が残されている。一方、鬼ノ城はいっさいそのような歴史書にはその名が見当たらず、誰が、何のために、いつ作ったのかわからない、ただ温羅伝承(この部分はあとで)として人々の記憶の中に残ってきた謎の城であった。
とあります。
これらのことから、鬼ノ城は古代倭国の王城であったのではと思います。
日本書紀では、天地開闢以来の連続した正統性を主張しています。ヤマトの勢力は倭国と日本が並立したことは認められません。しかしながら遣隋使で倭国は記録に残っています。倭国から日本に連続的に変わったことを主張しなければなりません。従って隋からの返使の裴世清が難波津に来たことにし、倭国の痕跡のある鬼ノ城を無視することにしたと思われます。小野妹子の国書紛失事件で、言い訳対策をしています。
また、二〇〇六年以降の発掘調査で、円面硯《えんめんけん》と呼ばれる硯が見つかっている。当時の社会においては、識字層は豪族・官僚など支配階層に限られていたと考えられ、この硯の出現は鬼ノ城内に文字を書いた官人達がいた証明であり、文字による城内の管理運営体制や中央倭政権との連絡交渉を想像させるものである。とあります。
 私には、もっと強く、隋などの外交交渉を行っていたと言ってもらいたいところです。
 中国側の記録に阿蘇山の話が唐突にあったと思います。実は、鬼ノ城の南側に阿曽地域があります。68頁には、この地域は正倉院文書の「備中国大税負死亡人帳」(天平一一[七三九]年)に記された賀夜郡阿蘇郷《かやぐんあぞごう》に該当すると考えられている。とあります。
 裴世清が来たときに、この地には渡来系の人がいて、地名が話題になり、阿蘇山の話にはずみ、記述された可能性があります。少し、納得できると思います。

温羅伝承
72頁に、岡山市の中山にある吉備津神社に伝わる伝説である。そこには、鬼ノ城に住んで人を困らせている温羅《うら》という鬼が、大和から派遣された将軍によって退治されるという話である。
とあり、この本では、吉備と大和の対立を古い時代と考えているようですが、私には、安田の地名(大和の勢力)が吉備の国を包囲しているように見え、対立は七世紀後半の時期ではないかと思われます。伝説も新しい時代のことで残っているのかもしれません。倭国=吉備国と考えると、日本書紀で日本は瑞穂の国で稲作主体としていますが、キビ・アワなどの国名を用い、吉備国を軽視してる雰囲気があります。後に吉備国の名誉挽回に、代表するような名前の吉備真備のような人物が現れることにつながってるように思われます。
 世間的な考え方とずれが大きいですが、鬼ノ城で七世紀前半のものが発見されれば、倭国=吉備国が、状況証拠ではなく、確実に成立するので期待しています。

注1:鬼ノ城と吉備津神社ー「桃太郎の舞台」を科学する シリーズ「岡山学」7、岡山理科大学『岡山学』研究会、吉備人出版

2018年7月3日火曜日

日本語の音節構造

世界言語の中の日本語よりの引用です。
67頁に日本語の音節構造について、

 日本語の音節は、すでに触れたように、CVという単純開音節を基本とし、
促音、撥音以外に閉音節(CVC)を持たない。このような開音節型の言語
は、ウラル・アルタイ語を含めてユーラシア内陸部の言語にはほとんど見ら
れない。

とあります。Cは子音で、Vは母音だと思います。アイヌ語と朝鮮語ではどうかと思いました。
 日本語とアイヌ語、片山龍峯著、鈴澤書店発行
を借りてきて見ると、26頁に日本語とアイヌ語の違いの項があり

 発音上の大きな違いは、アイヌ語では単語の終わりが子音で終わる言葉がかなりあると言うことである。日本語の場合は、母音を伴っている。両方の言葉を比較してみよう。
 たとえば、itak(話す)という単語。これを日本語で書き表そうとするとイタックとかイタク、イタク(半角のクは実際は小文字になっています)とするしかない。日本語では子音だけを書き表すことができないからだ。sukup(育つ)もそうだ。最後のpだけを日本語では表せない。スクプかスクプかスクップのように核しかない。アイヌ語研究者は仮名文字で表すためにさまざまな苦労をしてきた。

とあります。
 また朝鮮語ですが、日韓対照言語学入門、油谷幸利著、白帝社発行の58頁に末子音の対応というのがあります。漢字音での話ですが、対応表があります。これを横に並べました。順番に対応しています。

古い時代
 中国語・・m、n、η、p、t、k
 韓国語・・m、n、η、p、t/l、k
 日本語・・ん、ん、う・い、ふ(旧仮名遣い)、ち・つ、く・き
現代
 中国語・・ー、n、η、-、ー、ー
 韓国語・・m、n、η、p、l、k
 日本語・・ん、ん、う・い、う、ち・つ、く・き
(注:このηという文字はngの発音のように思われるが字体が違うかもしれません。ーは消滅の意味)
 韓国語においては古い中国語のmとnの区別をよく保存しているが、日本語で
は両者の区別は存在しない。ηも当時の日本人の耳に聞き取れなかったが、
何かの音があるという感覚はあったらしく、「う、い」で写している。
 語末のtとkは、日本語においては母音を伴ってはいるものの古い音をよく保存している。
 これに対し、北京方言ではnとηを除いて語末子音が消失しているが、現代中国音でも、広東方言のように語末のp、t、kを保存している方言もある。

とあります。朝鮮語やアイヌ語にある、単語の子音で終わるものが日本語ではないということです。
 単語の終わりに子音が、あり・なしを考えると、個人的には、最後に母音で終わる方が進化形のように思われます。
英語ですが、10mくらい離れたらcapとcatの違いなどわかりにくくなると思います。キャップとキャットの違いの方がわかりやすい気がします。この本には促音の「っ」ですが、欠配(けっぱい)、欠点(けってん)、欠陥(けっかん)、欠損(けっそん)の四種類の「っ」を韓国人は聞き分けるとあります。普段から気にしない日本人の立場なので間違ってるかもしれません。単なる憶測ですが、CVCよりもCVの形の方が、単純化して、よりコミュニケーションが取りやすくなると私には思われます。従って、系統的なことを言えば、日本語はアイヌ語とも朝鮮語とも関係のない言葉であるということになりますが、クレオール語のようなものだと考えれば、優れたCV形式を日本語は取り込んだと考えられます。違いよりも似ているところを見ていくことで親戚関係にあるという話になってきます。中国語で末子音が消滅していくのも、おそらく効率化を目指す言語としての当然の進化のようにも思えます。

2018年6月30日土曜日

日本語はクレオール語だったのか?

 アメリカが植民地であった時代、アフリカから奴隷を連れてきて、労働に従事させた時に、ニューオーリンズでアフリカの民族音楽と西洋音楽が出会い、ジャズが生まれたという話を聞いたことがあります。その時に中心となったのがクレオールと呼ばれる人たちです。記憶が定かではありませんが、こんな話だったと思います。音楽ではなく、言語について、枕詞から、この時に言語衝突が起こったのではと思いました。

接触言語 ピジン語とクレオール語、マーク・セバ著、田中孝顕訳、きこ書房発行からの抜き書きです。
 まず、A言語とB言語の話し手が出会ってできた言語がピジン語です。
ピジン語
*母語とする人がいない。
*複数言語間の接触の結果である。
*通常は一つの言語(語彙供給言語)から語彙のほとんどを取り込む。
*インプット言語の文法と比較すると、文法は単純化され、縮小されている。
*簡単な音韻体系を取る傾向にある。
*分析型(孤立型)形態または膠着型形態を取る傾向にある。
*単語と意味は語義的に透明な関係を取る傾向にある。
*語義的には単語に多様な意味を持たせるため、語彙は少ない。
ということがあげられています。私は理解しているとは言えませんが、著者のヨーロッパ言語のセンスが出ているように思われます。ピジン語ができた次の子供の世代になるとクレオール語と呼ばれます。また抜き書きです。

クレオール語
*複数の言語に関わる接触の結果である。
*それ以前のピジン語から段階的に発達する。
*安定ピジン語から段階的に発達するだろう、あるいは未発達なピジン語から突発的に発達する可能性もある。
*母語として使う人がいる一方、一部の人からはピジン語形式で使われることもある。
*文法は語彙供給言語よりも単純である。
*通常、時制、法性及び相の標識を動詞の前につけるなどの構造特性を共有する。
とあります。この内容については理解できていませんが、文法など簡素になることなどは理解できます。
 さて、日本語の話ですが、7世紀に百済滅亡により日本にやってきた人たちは、百済で話していた言葉をもとに日本で話されていた言葉からピジン語的な言葉を使った可能性はあります。一般的に、ピジン語では文字を話せない人が対象ですが、百済からの人は漢字が使えたので、文字として記録が残ったと考えられます。文字についても一方的なものではなく、音読みと訓読みのように混ざってしまったというか、妥協の産物のような気がします。枕詞などは誤解しないように、冗長的に考えられ、山々などの反復も同様に思われます。また万葉集などで、上代特殊仮名遣いと呼ばれる現在より多くの音節が使われていたとされますが、これらも文字を使いこなせる百済からの一世のピジン語のようなもので原日本語が文字化されたもので、二世・三世のクレオール化した人の時には土着化して消えてしまったと想像されます。枕詞も言語として確立したものになれば不要で、消えていったと思います。係り結びも良くわかっていませんが、ピジン語の関連があるかもしれません。原日本語はアイヌ語に近いもので、そこに、百済からの渡来人がやってき、現日本語の元ができたのではと考えても良さそうな気がします。
「原日本語(アイヌ語の原型)+百済の言葉(朝鮮語の古い形)→現在の日本語の原型」
のような式と考えられます。皇国史観にとらわれて、縄文・弥生時代から日本語があるように思ってはいけないということだと思います。日本語の起源の本などを見ましたが、各言語の基本単語を比較する方法など取り上げています。しかし、私の乏しい経験ですが、父母など、私より年長の人がパパ・ママと言ってるのに驚いたことがあります。基礎的な言葉でも変化は早いような気がします。また言葉が文字を介さない場合ですが、万葉集だったか、わたの原が大海原をあらわすというのがありました。私の推測ですが、海水を指さしてこれはなんだと言ったときにwaterだと聞いたのを海と勘違いしたのではと思います。ワタで通じたと感じただけのような気がします。基本単語でもずれて伝達された可能性が大きく、単純に比較できないのではという素人考えです。
アイヌ語とか古い時代の朝鮮語とかわかっていないので、おかしなところもあると思いますが、直感的には一つの説として成立しそうではあります。
 膠着型ですが、英語ではI,my、meのような変化ですが、日本語の私は、私の、私にのように、「私」が基本にあって、「は」、「を」、「に」などがくっつく形式のことをいうようです。朝鮮語も元から膠着型のようです。

朝鮮語との関係について、追加です。
 世界言語のなかの日本語 ー日本語系統論の新たな地平ー、松本克己著、三省堂発行
上記の本では、朝鮮語と日本語が近いような記述があります(全部見ていないのでニュアンスが違うかもしれません)。
178頁に、日本語と朝鮮語の間で指摘されてきた”共通語彙”とされるものには、数詞、身体人称、親族名称などの基礎語彙ではなく、むしろ農耕関係その他の文化的な語彙が多く含まれている。これも両言語の緊密な接触を物語っていると言ってよいだろう。たとえば、
日本語 pata「畑」、nata「鉈」
朝鮮語 pat 「同」、nat 「同」
・・・ほかの例は省略。
 これらは同源語に遡るというよりも、むしろこの時期に行われた言語接触・借用関係によって生じたとみなすべきであろう。
とありました。百済滅亡に伴う難民が日本へやってきたこととつながるような気がしました。この本では古い時代のように書いていますが、7世紀の影響ではないかと思えてきました。


枕詞

「安い」を調べていて、近くに「やすみしし」という言葉がありました。「八隅知し・安見知し」で、わが大君などのかかる枕詞とあります。
枕詞はデジタル大辞泉では
1.昔の歌文、特に和歌に用いられる修辞法の一つ。一定の語句に冠してこれを修飾し。または語順を整える言葉。普通は五音、まれに三音。四音などのもある。例として、あしひきの、たらちねの、ひさかたのなどがあげられている。
とあります。
「あしひきの」であれば、「山」にかかり、「たらちねの」であれば、「母」に、「ひさかたの」では「天空に関するもの」に限定された結びつきにあるということです。
 冗長的な表現であり、なぜこのような表現が出てきたかということが疑問です。しかし、枕詞の説明で納得いくものは見つけられませんでした。普通に考えると、言葉がくどくなるのは、うまく伝達できないので繰り返したり、言い換えたりしてきます。”アメリカの「あ」”というようなもののように私には思われてきました。
ひょっとして、この時代、日本語が確立してなくて、コミュニケーションがうまくいかず、日本語の生成期にあったのではと思われてきました。想像ですが、百済滅亡の時、多くの人が難民として日本にやってきました。この中で、その他大勢のグループから安田の名字の人が生まれたというのが安田仮説ですが、役人とかに取り立てられた人のことは考えていませんでした。元から日本にいた人と渡来人との間にコミュニケーションがうまくいってなかったと思われます。枕詞は正確なコミュニケーションを求めて、できたものではとの想像です。
クレオール語と日本語、田中克彦著、岩波書店
この本で比較言語学の項で、面白いことがかいてありました。
互いによく似た構造の言語を比較して、共通の祖先を仮定し、そこからどのような変化をへて現状にいたったかを、厳密な方法を用いて研究するのが比較言語学というそうです。他の言語と混じり合わないことを前提としています。
比較言語学の方法にたつ言語系討論は、たとえて言えば、言語学における万世一系の天皇制を主張しているようなものです。そうではなくて、すべての言語は混じりあうことで変化し、発展してきたと言ったのがクレオール学の祖と呼ぶべき、フーゴ・シューハルトであった。音韻法則の虚構性をバクロした・・・
比較言語学ではうまくいかないということのようです。

安いの追加

日本語源広辞典、増井金典著、ミネルヴァ書房より
やすい{安い}
 語源は、ヤスム(別項)参照ください。「ヤスム(休)ヤスラカ(安)と同根のヤス+イ」です。購入時不安のない価格が「安い」の語源となります。
と書いてあります。その後には安のつく関連地名姓氏で安などは、洪水がなく、水利の良い地、清らかな水の豊かな集落、その一族とあります。安田・保田も水害のない農耕集落とあります。昔ならそうかなで終わりますが、
日本書紀に天の安田が書かれていること、唐の都の長安にいる人に読まれることを意識していること、組紐の安田組などあり、もう少し粘りたいと思います。

別項のヤスムですが
やすむ[休む・息む] ヤスムの語源は、次の二説があります。説1は、「安しの語幹+む」です。心身を安らかにする、意です。説2は、「屋+住む」です。二説いずれも、休む、家で休憩、意です。休らうも同源です。中国語源【休】・・「人+木」。人が木陰にいるが語源で、休む意。【息】・・「自(鼻)+心」。鼻から息が出ているのが語源で、ヤスム。憩う意。
と書いてあります。説2は、どうかとは思います。住む→休むなので、どういう時間差で生じたかのかとか、家の中であっても休む以外に翌日の仕事の準備をしたりといろいろなことが考えられますが、休憩するという意味に特定された必然性が感じられません。家の中で休むことを良しとしても、範囲がいつから外でも休むということまでひろがったかとか、どうだろうと思います。
安らかの項に、中国語源【安】の説明があります。「宀+女」。家に女がいてくれると、すべて安らかである。
とあります。中国語源はもっともらしさがありますが、語源というのは、こじつけっぽいところがあります。
「購入時に、不安の無い状態から安いが低価格の意味」だと考えている人がいたのはうれしいですが、説得力のないことを言ってるのかとも思いました。

2018年6月24日日曜日

安いの意味

 安いの意味として、低価格の意味があります。
広辞苑第7版、新村 出編、岩波書店の「やすい」をみると
[安い・易い]とあり安の方には
①悩みがない。心のどかである。②安心だ③平易である④かるがるしい⑤廉いとも書く、品物の量や質の割に値段が低い・・・
とあります。
 字統 普及版、白川静著、平凡社の「安」の項には
アン、やすらか・おく・いずくんぞ
とあり、途中は省きますが、最後に安価・安易のように用いるのは国訓である。
とあります。
 デイリーコンサイス日中辞典を見ると
安いには便宜、低廉とあって「安」の字は出てきません。日本で、低価格の意味が追加されたようです。
 どうして日本で低価格の意味ができたか、考えてみました。安いには元々、心のどかであるという意味があります。貨幣経済の発達で、物を買うときに値段の高低が大事になります。たとえば時価とあれば精神的に不安になります。値段が低ければ、精神的に安定します。安いには安心の意味があったのではと思います。「安心価格」から安いということになったかもしれません。
 ひょっとしてと思い、cheapについて英和辞典を見ました。
①(現行値段・実際の価値より)安い②努力なしで得られるとかの意味で、俗語的にa気分が悪いb恥ずかしい、きまりが悪い、しょげた
とあって、良い意味ではありません。
 安心と低価格の二つの意味を持つ言語が日本語以外にあるかですが、
だめなもの・・・英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語、イタリア語、ロシア語、中国語などのようです。ほかの言語であるかどうかはわかりません。語学に不得意なもので、ぱっと見ですので、間違いの可能性はもちろん高いです。
 たまたま、インドネシア語のところで
安いをmurahというそうですが、逆にmurahで見れば、廉価な、安いという意味のほかに、寛大な・幸運なの意味があるようです。探せば日本語と同じように、低価格・心安らぐの意味を持つ言語があるような気もします。
 感覚的には、売買行為で国民性が表れているのかもしれません。日本では、ぼったくりを恐れ、インドネシアでは感謝の雰囲気を感じます。安いという意味だけで無く付随的な意味が言語によってあるということで、正確に翻訳する(ニュアンスを伝える)のは難しいということも感じます。

2018年6月23日土曜日

方言の東西対立

 日本語の歴史1、方言の東西対立、柳田征司著、武蔵野書院の「おわりに」を見ての感想です。
 この本では、日本語は中部地方を境界に東西で異なるがそれは古い時代からのものではないということのようです。習った、習うたの促音便とウ音便の違いは江戸時代以降と書いてあります。買うといった場合に「買って」と「買うて」の違いは、物々交換の時代の言葉ではなく、貨幣経済が盛んにてからの言葉のはずで、多分平安時代以降の話だと思われますのでそうかなという気がします。方言の違いが古代の歴史を調べることに直接はつながらないということになります。今まで勘違いしていたと思いました。
 n人のグループで挨拶とかすることを考えます。だれか一人は(nー1)人と挨拶します。n人ではn*(nー1)回の挨拶が発生することになります。少し面倒なので、自分にもつぶやきで挨拶するとすれば、n*n回の挨拶になります。10人のグループでは10*10=100回です。100人のグループでは100*100=10000回になります。人数では10倍ですが挨拶の回数では100倍になります。人数比をrとすればr*rになります。言葉の変化はできるだけ合理的なものを目指していくと思いますが、使っている言語を維持しようとする力が働くので、突然変異的に変化するのではと想像します。すると10人のグループと100人のグループでは、可能性として後者の方が100倍変化しやすいことになります。人口が集中した地域ほど変化の具合が大きいということです。単純には奈良・平安時代は西日本、最終的には江戸時代には東日本の変化の影響が大きかったということのように思われます。
 この考えを発展させると、少数者の言語の方が変化が小さいことが予想され、古い時代の言語を調べるには、大事になってきます。日本語の原点は奈良時代より前の時代にあり、その前の時代はアイヌ語の方が近かったかもしれません。
 アジアの言語でも、古い時代は周辺地域のSOV形式だった可能性は高かったと思われます。

2018年6月20日水曜日

アジアの言語の起源

 日本語の起源から、考えていて、
嘘っぽい図を作ってみました。SVO(赤)とSOV(緑)の言語の地域です。


 中国がSVOで赤が目立ちます。昔の満州といわれる地域はSOVだったので、緑っぽい楕円であわしています。かなり不正確な図ですが、赤の地域を緑の地域が囲んでいるように私には見えます。初期的な音声の言語はSOVが優勢であったのが、中国の文字の発生でSVOが優勢になって広がったと考えて整合性があるように思えます。日本では漢字を受け入れたのですが、語順については返り点などで抵抗しています。東南アジアの国ではSOVからSOVになってしまったと思いたいですが、語順は変化しにくいと思われるので、そうした時の理由が出ません。東南アジアでは華僑という人たちがいます。おそらく、交易で、品名・数量・価格など文字を利用する人たちの方が、文字を持たない人よりも有利であったと思います。日本に中国からの商人が来ても目立たなかったのはなぜかという疑問はあります。
 妄想ですが、最初は音声のみの言語SOVでアジア地域に広がり、数千年前にたまたまSVOの地域で漢字が作られ、それが中国を中心に広まったのではと想像します。アイヌ語も元々は日本語と同じような言語であったものが、日本語に文字が導入され、アイヌ語は導入されなかったことで、日本語とアイヌ語で違いがっでたのではとの思いつきです。もちろん根拠はありません。日本ではSOVの語順が残り、東南アジアではSVOの語順に変化した違いについて、中国からある程度の人数の移動がなければ説明できないので説得力はありません。

音声だけの言語と、文字を持つ言語の違い
伝言ゲームのようなことを考えれば、音声だけでは正確には伝わりにくいと思います。音声のみならば、国の勢力範囲は人間の一日の行動範囲ぐらいのような気がします。文字があれば、このゆな制限は考えられません。文字だけの言語は小さな地域に留まる可能性が高いと思われます。たとえば、古墳時代に文字が無かったと考えれば、統一的な日本ではまく、ゆるやかな連合組織の方が整合性があると思われます。

2018年6月16日土曜日

危機言語

言語の歴史を考えていて、危機言語といいうことを知りました。
世界には、現在約7,000の言語が話されています。その約半数は話者数が6,000人以下の言語です(いわゆる少数民族語)。さらにその中に、話し手がごくわずかしか残っていない言語がおよそ450あることが知られています。これらの言語は、政治経済的・文化的に優勢な大言語に圧倒されたり、より勢力のある周囲の言語に圧迫されたりして、いま地球上から急速に消滅しつつあります。「危機言語」とは、存在自体が消滅の危機に瀕している、このような諸言語のことです。リンク先

優勢な言語が劣勢な言語を駆逐していくということのようです。
 それで、ランチェスターの法則を思い出しました。図書館から借りてきた
  自然の数理と社会の数理 ーー微分方程式で解析するⅠ、佐藤總夫著、日本評論社
を見ています。ランチェスターはエンジニアで航空工学で貢献した人のようです。戦の数学モデルを考えたパイオニアとのことです。詳しいことはこの本を見てもらえれば良いのですが、私なりの理解で進めたいと思います。
 話を単純化して、同等のパンチ力を持った人がけんかすると考えます。単位時間にパンチを一回繰り出すことができるとします。けんかは1人と2人です。単位時間に2人は一発づつ、計2発を1人に加えるのに対し、1人のほうは2人に対してどちらか1人にパンチを繰り出すことになります。2人目はもう1単位時間が必要になります。単位時間で考えれば、2人に対して0.5発のパンチを与えたと考えることができます。ダメージで言えば、1人の方は2発を受け、2人の方は0.5発の影響になります。つまりダメージの比率は1:4となります。1人と3人では、この比率は1:9となります。人数の二乗で効いてきます。
これで、この本の
   戦闘力=武器の性能×(戦闘員数)^2
の式になるとして良いだろうとなります。武器の性能ですが素手の場合は1ですが、武器を使うことにより、戦闘力を増すと言うことです。たとえば、10人と7人で戦う場合、素手であれば、戦闘力は100:49ですので、ほぼ2倍の差になります。素手であれば相手の2倍の早さでパンチを繰り出すとかしないと少数のグループは対等に戦えないことになります。なかなか大変ですので、武器を使って、たとえば2倍の戦闘力にしないといけないということになります。
 言語の場合も同じように考えられます。1人と2人とでコミュニケーションを取る場合を考えて
   影響力=伝達手段の性能×(言語を話す人数)^2
のように思われます。(単に思っているだけで証拠的なものはありません)
 ランチェスターの法則の式の恐ろしいところは、少数派の全滅には、多数派の損失がそれほででも無いということにあります。この本には、紅軍100人と白軍50人が戦った場合、白軍50人全滅の時に、紅軍の損失は14人に留まるということです(80-81ページ)。これを、言語に当てはめれば、少数者の言語はどんどんグローバル化により、多数派におされ消滅していくことになります。上の式で伝達手段の性能というものを使っていますが、これは音声と文字の意味です。文字を獲得した言語とそうでない言語では圧倒的な差があるということです。文字を持たない少数派の言語は消え去るしかありません。今は、グローバル化によって英語の地位が上がっていると思います。英語が優れた言語とは思いませんが、文字を持ち、さらにネットとかで、伝達性能があがれば、格差がますます広がると思います。言語の統一化(英語化)が進むはずです。伝達手段がどの言語でも平等になるためには、それぞれの言語を尊重した、おそらく自動翻訳的なものが必要になってくると思います(これぐらいしか思いつきません)。グーグルさんとかに頑張ってもらいたいものです。

2018年6月14日木曜日

仮名の発音

次の本の表記法についてのところからの抜き書きです。
 日本語の起源と古代日本語、京都大学文学研究科編、臨川書店

 日本語のラ行はl(エル)音に近いが、ローマ字ではrで表記する。またハ行音は、p→φ→hの変化をしたことが明らかになっているが、奈良時代はまだpの段階にあった可能性が高い。しかし通説ではφ(f)音であったとされており、表記でもφやfが用いられるので、本書でもfを用いる(古代語ではpに読み換えて欲しい)。古代日本語についてはp音を用いる研究者もいるので、それはそのままpで表記しておく。
仮名の中には現代語と異なった発音のものがあるので注意していただきたい。
①「ち」は[ti]、「つ」は[tu]の発音(室町時代に[tsi][t∫u]に変化)。
②ア行「え(e)」とヤ行「江(ye)」の区別あり(10世紀半ば頃に合一)
 (平仮名の体系は「え」「江」の区別がなくなってから固定したために、ヤ行の「ye」を表す仮名が無い。仕方がないので「江」で代用する習慣である)。
③ア行の「お(o)」とワ行の「を(wo)」の区別あり(平安時代末に合一)。
④ア行の「え(e)」とワ行の「ゑ(we)」の区別あり(鎌倉時代に合一)。
⑤ア行の「い(i)」とワ行の「ゐ(wi)」の区別あり(鎌倉時代に合一)。

とあります。
 現在ある名字とか地名も、過去から引き継いでいるので注意しないといけないということだと思います。今まで勘違いしてたことも多いはずで、今後は注意したいと思います。

2018年6月12日火曜日

百済の難民と遺伝子

 前回に続いて、「日本語の起源と古代日本語」臨川書店、京都大学文学研究科編
を見ています。抜き書きです。
 人類はアフリカを起源として、広がっていきました。78ページから、シベリアにたどり着いた後、ベーリングジア(ベーリング海が陸地化した)を通って、南北アメリカに移動したそうです。69ページからですが、現在、南米ではほとんどスペイン語・ポルトガル語になってしまっています。しかし、これはスペイン人やポルトガル人が大量に移住したのではなく、少数のスペイン人・ポルトガル人が南米を征服したことが原因とされます。コロンビアでは男性遺伝子Y(男子はXY、女子はXXで、父母から一個ずつ子に伝わる。父のXと母のXを受け継げばXXで女、母のXと父のYを受け継げばXYで男となる。男子を受け継ぐ遺伝子と女子を受け継ぐ遺伝子があるらしい)の94パーセントがヨーロッパ起源の遺伝子であり、女性遺伝子ミトコンドリア遺伝子(XYと別らしい)は現地のものであるという(青木薫訳「DNA」下、2005)。つまり、少数のヨーロッパの男性が現地の女性に子供を産ませ、男を殺してしまったために、現地の男性の遺伝子は6パーセントしか現存しないということである。
と書いてあります。ミトコンドリア遺伝子による移動は女性の移動の歴史ななるとのことです。
 さて、日本語についてですが、遺伝的にはタミル語のドラヴィダ族は、日本にやってきたとは考えにくいようです。Y遺伝子ではモンゴル・チベットとの関係が深く、ミトコンドリアと核遺伝子からは朝鮮半島の関係が深いという結果で、かなり古い時代にモンゴルやチベットからやってきた遺伝子に、朝鮮半島から多くの女性がやってきて、日本在住の男性と混血したことになる。これは不自然な設定になるので、このような齟齬が起こる原因を探る必要がある。(82ページあたり)とあります。
 しかし、朝鮮半島から多くの女性がやってきたことはおかしくありません。安田仮説の考えですが、朝鮮にあった百済が滅び、百済復興運動が白村江の戦でかなわぬ状況になり、難民として日本へやってきました。その人たちから安田の名字が生まれています。日本書紀では2000人以上とのことです。私は事実としてあったと信じていて、難民なので女性も多くいたものと思われます。どれだけ遺伝子に影響したかは不明ですが、何かしらはあったと思われます。

2018年6月10日日曜日

日本語の起源

 梵字からヒンディー語を見ていたのですが、文字そのものは全く関係ないように思われますが、文の構造は似ているようです。
「まずはこれだけヒンディー語、高村 青著、国際語学社」からの抜き書きです。
英語では、「I am a Japanese.」で、「主語+動詞+補語」の順になりますが、ヒンディー語、日本語では「私は(マェン)日本人(ジャーパーニー)です(フーン)」という風に、「主語+補語+動詞」の順になるそうです。同様に、英語では「I speak Hindi」のように「主語+動詞+目的語」の順が、ヒンディー語、日本語では「私は(マェン)ヒンディー語を(ヒンディー)話します(ボールター フーン)」と「主語+目的語+動詞」となります。
と書いてありました。語順が似ています。
 また、インドの横のミャンマーという国(日本ではビルマとよばれていた)の言葉も文字がわかりにくいですが、日本語と同じ語順で一瞬インドに日本語の起源があるかのように思われます。
 大野普氏がタミル語起源説を述べられています。タミルは南インドです。サンスクリットから梵字が日本に伝わったことを考えれば、ありうる話です。
 漢文や英語ではS+V+Oの形式で、日本語が特殊なように思っていましたが、S+O+Vの形式の言語はいっぱいあることを今回知りました。朝鮮語は文字がハングルですが、単語を日本語に置き換えれば、日本語になるようです。モンゴル語もロシア文字のようですが、語順は日本語と同じとのことです。アイヌ語も語順は日本語と同じです。フィリピンのタガログ語はV+Sの形で、いつもいつもS+Vではないこともあるので思い込みには注意しないといけないです。
世界の言語ガイドブック2アジア・アフリカ地域、東京外国語大学語学研究所編、三省堂を借りてきて、見ています。間違いを承知でまとめました。
・S+V+Oの形式
カンボジア語、スワヒリ語、タイ語、中国語?(語順の説明なし)、ベトナム語?(語順の説明なし)、マレーシア語、ラオス語
・S+O+Vの形式
アイヌ語、サンスクリット語、チベット語、朝鮮語、トルコ語、日本語、ネパール語、パシュトー語、ビルマ語、ヒンディー語、ペルシャ語、満州語、モンゴル語
・その他(不明も含む)
アラビア語、インドネシア語、タガログ語

インドから日本に到達するには、S+V+Oの地域を乗り越えて行かないとだめなのでタミル語起源説は苦しいところがあります。
 V+Sはおいといて、S+V+Oの形式とS+O+Vの形式のどちらが優れているかといえば、文字の導入された状態では差がないように思えますが、音声の言語としてはSOVが優れていると思います。一つの文を考えた場合、SOVでは動詞がくれば、それで文が終了したことがわかります。SVOではOの部分が長くなる可能性があるので、文章の終わりが、わかりにくくなるように思われます。英語の電信ですが、文の終わりにフルストップをつけることがありました。
 しかしよく考えれば、否定文の時に話が違ってきます。否定を早く伝達することが大事なので有利さは逆転します。S+notV+OとS+O+notVでは差があります。日本語で、話を聞いていて、最後になってから、「*****ではありません」と聞いて驚くことも誰もが経験していると思います。SOVは肯定的、現状維持的な文章、SVOは現状否定的な文に有利です。SOVは保守的、SVOは革新的な語順と私には思われます。
 日本語の起源と古代日本語、京都大学文学研究科編、臨川書店発行
この本の中に遺伝学の話があります。76頁からわかりやすくまとめられています。
人間の拡散
 遺伝子の研究によれば、現世人類の原郷はアフリカで、10万年~15万年前(年数は概数とのこと)、アフリカに住んでいた現世人類の一部がアフリカ東部から「中東」へ移動した。これを「出アフリカ」と呼ぶ。・・中東の説明省略・・・「中東」にたむろしていた人類は、一部が6万年前、東へと向かう。通常、人が移動するのは食べられなくなったことが原因であることが多い。人口が増えすぎたり、気候が変化した場合である。東に向かった人々は、海岸線に沿って南へ向かい、印度、マラッカ海峡、そしてスンダランド(マレーシア・インドネシア・ボルネオなどで陸続きになったところらしい)、サフルランド(ニューギニアとオーストラリアの陸続きになったところらしい)に到り、4万年前にはオーストラリアにまで到ったという。
 もう一つの経路は北ルートで、「中東」から、ヒマラヤの北を通って、シベリアの方に移動した。この北ルートへの移動時期は南ルートよりも遅かったと言われているが、そのルートと時期はまだはっきりとしない。4万年程前にはシベリアに到っていただろうと言われている。スンダランドに到った人々が北上してシベリアに向かったと考えている研究者もいる。それ以外の地域にも、小集団がいろいろなルートを通って移動し、生活できるところがあればそこに定住したことだろう。
 その後、「中東」に残っていた人々の一部が、5万年ほど前に北西へ移動してゆき、ヨーロッパに広がった。それがコーカソイド(白人種)と呼ばれる人々になった。東に進んだ人々はモンゴロイドと呼ばれる人種になる。・・・途中省略・・・
 日本人は、北海道アイヌ・琉球人・本土人、全て北方モンゴロイドに属することは、今はほぼ共通の理解になっている。台湾は南方モンゴロイドである。沖縄と台湾の間に南北モンゴロイドの境界があり、台湾から琉球列島を通って日本列島に南方の人間が広がり、縄文人になったという説は成り立ちにくいとされる。・・・
遺伝子の研究では、ミトコンドリア遺伝子、Y遺伝子、核遺伝子、免疫グロブリン遺伝子による研究があるらしく、違いが出ておりその解釈も考えないといけないとのことのようです。
 地図がないので、わかりにくい文章になっていますが、人類の最初の頃から言語があったとすれば、最初は語順とかの制約のないものであって、その後、世界に広がっていく中で、SOV型の言語となり、突然変異的にSVOに変化した地域が中国など出てきた。と考えれば、インドのタミル語と日本語が古い時代の形式を持っていて似ている部分があると考えられなくはありません。中国なども昔は(文字のできる前、何万年か前のこと)はSOVであったとすれば、話はもっと単純になります。完全な妄想ですが。


アフリカ単一起源説

2018年6月5日火曜日

カタカナの「ア」

 安田は阿田とかも表記され、ひらがなの「あ」は安だけでなく、阿とかいろいろあるようです。カタカナのアは漢字の一部、阿の左の偏が取り入れられたもので、800年ころの四分律にあるとのことです(大辞林の日本語の世界、片仮名より)。この四分律は仏教の教典で、鑑真が日本に伝え、その宗派は律宗と呼ばれる。とあります。「あ」の発音する漢字は他にもあるのですが、阿は梵語の第一字母の音訳。→吽とあります。阿吽《あうん》は梵語の音訳で、阿は悉曇字母の最初で開口音、吽は最後の音で閉口音。とあります。
大辞林第二版、1995年11月3日第ニ刷発行、三省堂から見ています。
「あ」の発音する漢字はほかにもあるわけですので、なぜ「阿」になったかということです。
  梵字で見る密教、児玉義隆著、大法輪閣、平成14年6月8日発行
を見ていると阿字観という言葉が出てきました。
阿字観とは
密教における宗教的瞑想法の一つ。この宇宙のあらゆる事象が「阿」という字音に含められるとし,すべてのものがそれ自体すでに根本的であり,もともと生じたり滅したりしないものとする。この真理を体得するための瞑想法。(単語の意味はブリタニカ国際大百科事典より)
 漢字では「阿」ですが、梵字では変換できないので
次のような形の文字です。



 先の本には、弘法大師空海が梵字を体系化したとあります。この文字は胎蔵界大日如来をあらわすとするのが一般的なようですが、諸仏の通種子とのことで、いろんな仏尊をあらわすオールマイティな文字のようです。これらの梵字は、お守り、護符、五輪塔(密教では地・水・火・風・空をあらわす大日如来を具現化したものらしいです)やそれを簡略化した塔婆(語源はインドのストゥーパで仏塔を意味する)、多層塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう、塔身に経文や真言陀羅尼を納めた)などの石造物に用いられています。
 古代インドで誕生し発達した梵字は、現在は日本のみで生き残っているということで、仏教を意識する人にとっては阿は一番と感じる漢字(「あ」は梵字で一番最初に習う文字)であったのかと思います。
 現在のヒンディー語では「あ」は下のような文字です。
梵字は日本化していますが、似ていると言えば似ています。


2018年5月30日水曜日

和歌山県と南海路

世界史とつながる日本史 ー紀伊半島からの視座ー
ミネルバ歴史・文化ライブラリー33
 この本では、紀伊半島の歴史を扱っています。南海路に関係しているところをみました。
.徐福伝説
 古いところでは徐福伝説について書いてあります。今から約二〇〇〇年前に方士(仙術をを扱える者)の徐福が秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて蓬莱の国へ赴くが、秦へ帰ってくることがなかったというものである。徐福伝説も黒潮という海流の存在が大きく、漂着伝説の一つとして、また熊野というところの常世信仰と紀伊半島が結びついたのであろうということです。
.大谷古墳に見る古墳文化の国際性
 これは朝鮮からの影響が強いということで、南海路と関係がなさそうです。しかし、この地域が朝鮮・中国・インドへのつながりがあるようなことも書いてあります。
.新・大航海時代
 話が飛びますが、この本では、百七頁から
日本史料のなかで、戦国時代には紀伊半島は「紀州惣国」という国家組織があり、一揆(団結)して、自立していたとのことです。一五八五年、秀吉の紀州攻めで、中野城合戦、大田城水攻めなどで使われた一六世紀の鉄砲玉の産地が、大半が外国製で、中でもタイのソントー鉱山の鉛鉱脈が多い。長篠合戦では、日本産が半数だったのに対し、和歌山平野のものは八〇パーセント強がアジア産である。と書いてあります。
 この地域では南海路から持ち込まれた弾(または弾の材料)が多かったのではと考えられます。
.鉄砲伝来
 真説 鉄砲伝来、宇田川武久著、平凡社新書では、鉄砲伝来も、天文一二年(一五四三)、種子島に漂着したポルトガル人が伝えたという説明が、どうなのかと言われているようです。しかし厳密には違うかもしれませんが、おおよそは南海ルートを介して素早く紀州の根来衆・堺に伝わり、結果として早い時期から堺が鉄砲の供給基地になったと考えても自然に思われます。
.鉄砲伝来に関して別の本
 同じく平凡社新書で、戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆、鈴木眞哉著という本があります。雑賀衆の末裔の方が書かれていておもしろいと思いました。
 雑賀の地は農地として良くなかったらしく、三十九頁から、「昔阿波物語」に言われている交易業である。そこでは湊の衆を指して「商売人」と形容していることは、すでに触れたが、「紀州の者は土佐前を船に乗り、さつまあきない計《ばかり》つかまつる。とも記されている。薩摩商《さつまあきない》いとは、土佐沖を突っ切って、当時、対明貿易の拠点だった薩摩の坊ノ津(鹿児島県川辺郡坊津町)辺りへ行って交易したことをいっているものと思われる。・・・薩摩へ往来した人たちは、そこで停止したわけではなく、中国本土へも向かったようである。明代に鄭若曾《ていじゃくそ》が著した『籌海図篇《ちゅうかいずへん》』*に「乞奴苦芸《きのくに》」*の人もしばしば入寇《にゅうこう》すると記されている。「入寇」などという穏やかならざる表現がされているのは、彼ら紀州人もいわゆる「倭寇」の一員とみなされていたからである。・・・とあります。
*はキーの打ち込みに自信がないところです。戦国時代には、南海航路があったということで、それがいつまでさかのぼれるかということだと思います。
 南海路とずれますが、この本では、第五章に、石山合戦と雑賀衆があります。
石山合戦とは、織田信長と本願寺が元亀元年(一五七〇)から天正八年(一五八〇)まで、戦ったものである。途中二回の講和。休戦があったとあります。巻末の年表を見ると、各地に一向一揆が起こっており、十年間も続いており、宗教戦争といってもよいぐらいなのに、軽く考えていました。

2018年5月28日月曜日

和歌山県の安田、南海航路

 和歌山県には安田の地名はないと思っていました。遣唐使の南海航路(紛らわしいので南島航路はやめます)のことで沖縄県と高知県が結びつくかもしれないと思い、ひょっとしたら和歌山県の方と関係あるかもと考えました。
 角川日本地名大辞典30和歌山県を見ました。安田ではなく保田が有田市にありました。保田のところ、古代から戦国期に見える庄園名・・・。また、保田荘《やすだのしょう》、江戸期の荘名。有田郡のうち、中世には保田荘が見えるが、近世で属した村々は「続風土記」によれば、辻堂・山田原・中島・星ノ尾・千田の5か村。とあります。明治二二年から5か村が合併して保田村となり、役場を辻堂に設置とのことです。現在は有田市辻堂のようです。学校の名前などに残っています。


 和歌山県は現在の和歌山市紀ノ川沿いが、古代より栄えたところです。保田(もちろん安田と考えています)は有田川沿いで、新興勢力の地域のためか、微妙に紀ノ川から離れています。
 和歌山県には、鳴滝遺跡があり、これが難波宮にあった倉庫群と似たようなものであるとのことで、遣唐使と関係があり、南海航路と関係あると思いましたが、遺跡は和歌山市で保田の有田市と紀ノ川・有田川と離れて距離があり、どうも違うようです。
 和歌山県の歴史散歩、山川出版に鳴滝遺跡の説明がありました。
 大谷古墳の北東約1kmにある近畿大学附属和歌山高校のテニス付近が鳴滝遺跡である。一九八二年に発見された、当時全国最大規模の古墳時代の巨大倉庫群遺跡で、その後発見された法円坂古墳(大阪市)と並んで貴重なものである。和泉山脈南麓の丘陵を削平したうえで、西側に5棟、東側に2棟の掘立柱建物が整然と配置され、一棟の規模はそれぞれ桁行四間・梁間四間で、最大のものは10.1m×8mであった。柱を抜き取った穴から楠見式土器が出土したことから、五世紀前半から中頃のきわめて短期間に存在し、その後人為的に廃されたようである。束柱とは別に上屋柱を設けて切妻屋根の荷重を支えるこの建物群については、紀氏集団の倉庫跡とする説とヤマト政権の倉庫跡とする説に分かれる。遺構は埋め戻され、建物の復元模型と遺物は、和歌山市、岩橋《いわせ》にある県立風土記の丘資料館に展示されている。・・・
 この鳴滝遺跡ですが、紀ノ川を上流に向かっていくと奈良県につながります。瀬戸内海航路が封鎖され、南海航路を使わなければ成らない時に、この集積地が必要とされたのではと考えたくなります。いろいろと南海航路の問題が出てきて、すぐに廃止されたと考えればつじつまが合います。
また参考になることとして、復元日本大観4船、世界文化社に、
 室町時代には、日明貿易が行われ、遣明船は兵庫を出帆後、博多に集結して準備をととのえながら、気長に季節風を待ち、機を得ると、春は五島列島の奈留島、秋は平戸北方の大島に進出し、東北の順風を得て、東シナ海に乗り出し、寧波《ミンポー》に到着した。・・・なお、のちに大内氏と敵対した細川氏は、堺を出帆して、四国の南を通り、南九州の坊ノ津を基地として渡海した。と書いています。(七十九頁)
 瀬戸内海の航路が使えないときに南海航路が採用された例になります。もちろんこの時は造船技術の発達や磁石の利用など違いはあるようなので、遣唐使の時代にそのまま当てはまるものではないとは思いますが。

2018年5月26日土曜日

通りゃんせの歌

 江戸時代の童歌のようです。
黒潮の流れを見ていて、「行きはよいよい 帰りはこわい」のところが、漁師の注意をうながす歌のように感じました。

黒潮の図があるページ

 この流れで黒潮反流があります。微妙な流れです。天気が良くても間違って黒潮の流れに乗ってしまい遭難する人もいたのだと思います。名もなきジョン万次郎が多くいたのかも知れません。西から東へは、黒潮の流れ、逆は沿岸を進めば東から西へは進めそうです。沿岸で漁をしていて、魚を追って、黒潮の流れに入り、黒潮の大蛇行とかにはまった人もいたのではと推測します。当時の人には黒潮の見えない細道に分けわからず、天神様におすがりするしかなかった状況の歌に思えてきました。知恵袋の回答などを見ると、黒潮は最速7km/hらしく、手漕ぎボートでは、4~9km/h位、11~13km/h位とかで逆らって進むのは大変と思います。
以下、歌詞です。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

黒潮の雰囲気があるようで、通りゃんせー黒潮説です。

2018年5月23日水曜日

ひらがなの「あ」

 平安時代初期にひらがなができたと言われます。「あ」の元は安と阿のようです。
五體字類の巻末に仮名変体があり、「あ」のところの小野道風のサンプル三種類抜粋しました。「安」から変化したことがよくわかると思います。



 これから感じることですが、平安時代初期には「安田」をアダと読んでいたのかもしれません。今はヤスダとかヤスタとかになっています。そうすると沖縄のアダは古風な読み方として今に残っているのかもしれません。遣唐使の時代と重なってきます。正倉院に残った安田組もその頃の読み方として共通するものと考えられ、整合性があります。
 このアダ→ヤスダにどうしてなったのかとかはまだわからず、可能性だけですが。

2018年5月22日火曜日

遣唐使の南島路

 高知県と沖縄県に安田の地名があることから、遣唐使の南島路があったのではないかと考えました。日本側から中国側に向かうのには遠回りで大変ですが、復路の場合は黒潮の流れに乗ればそれほどでもなく、行きと帰りが異なるコースも十分考えられます。
遣唐使全航海、上田雄著、草思社
 この本で、遣唐使船は季節風を利用したかという問題を取り上げています。二百八十六頁に表の形でまとめられています。それに拠れば、往路は七月一例、八月五例、十月一例で、明らかに夏の季節風を利用しての航海であったと見ることができる。それに対して、唐から日本への復路は九月に一例、十月に一例、十一月に一例、十二月に三例と、秋から冬にかけての季節風(大陸から大洋への風)を利用した例が多いとみることができる。ただし帰航の場合は、五月一例、六月二例、八月一例と例外が四件もあるので、「季節風利用の航海の方が*より*多かった」という表現しかできないようである。
とあります。復路では季節風を利用できない場合、南島路の可能性があったのではと思われます。季節のばらつきがあることからの想像です。
 また時代が下がりますが、
復元日本大観4船、責任編集ー石井謙治、世界文化社
には、延喜式に京都までの海路による年貢物の所要日数を規定していて、土佐(高知)から二十五日とあります。現実はこれより日数がかかり、例として、紀貫之の土佐日記をあげています。承平四年(九三四)、五十日かかっている。しかし実際の航海日数は十二日にすぎないとしています。遣唐使が唐から土佐までたどり着けばあとは何とかなるとは思われます。
 それと、遣唐使全航海の本では、天平七年(七三五)南島に小野朝臣老《おののあそんおゆ》らを派遣して島の名、船の宿泊所、水のある所、行き来する国までの行程、遙かな島の名など記した碑(立札)を建てさせた記事や、天平勝宝六年(七五四)にその碑を更新させているとの記録は、前年に遣唐使が漂着した結果の対応と見られる。としています。しかし、これも南島路がもともとあって、整備したように考えても良いように思われます。
 遣唐使船の具体的なことが不明であり、また沖縄(琉球)が唐の時代に交流していて、その仲介であったとの記録もないようです。わからないことだらけですのでこの話は休憩とします。

2018年5月19日土曜日

将棋史研究

 藤井七段の活躍で、昔の将棋に少し関心を持っています。戦国時代の将棋に関連するかと思っての投稿です。
 将棋のことで、滋賀県文化財保護協会の編集・発行の紀要に三宅弘氏が
将棋について調べられています。現在は今年に出された将棋史研究ノート9まで進んでいます。本当に偶然に知りました。
 紀要30の研究ノート8では、歩兵の特集です。
歩兵駒の出土した遺跡の項で、全国で35遺跡を数え、出土枚数は132枚にのぼる。・・・一覧表では、平安時代の駒は16枚であるが、それらは全て近畿地方か東北地方に偏っている。遺跡の性格も寺院か宮跡・国府などの公的な機関に限られていることがわかる。
とあります。平安時代には庶民の手の届かない場所で行われていたことを類推する手がかりになることは間違いない。ともあります。
鎌倉・室町時代の歩兵駒出土地域を見ても多くが寺社関係のもののようです。
 ある程度、限られた人たちの間での将棋の普及を考えれば、後奈良天皇の時の話も十分ありうると思われます。この研究ノートでは現在の駒についての連載で、醉象(すいぞう)とかについてはなかったように思われますので、その点が残念です(きちんと見ていないので違ったらすみません)。
 紀要を購入すれば良いのですが、ケチってます。以下に、私のメモ書きです。
1.紀要31、将棋史研究ノート9-飛車と角行の登場-(三宅弘)
2.紀要30、将棋史研究ノート8-歩兵の存在感(三宅弘)
3.紀要29、将棋史研究ノート7-桂馬と香車の動きと性格-(三宅 弘)
4.紀要26、将棋史研究ノート6-銀将の存在-
以下はダウンロード可能です。
5.紀要24、ノート5
6.滋賀文化財だより、No.200、ノート4
7.紀要6、ノート3
8.滋賀文化財だより、No.181、ノート2
9.滋賀文化財だより、No.180、ノート1
ダウンロード先がややこしくなっています。
ノート8の文献の所を見ると、
増川宏一(2013)「将棋の歴史」(平凡社新書670)
があげられています。
また
清水康二(2014)「古式象棋と将棋の伝承」「月刊考古学ジャーナル」3月号 No.428、ニューサイエンス社
などもあるようです。

2018年5月18日金曜日

遣隋使と推古天皇

 図書館で遣唐使の本を探していたら、遣隋使の本があり、借りてきました。
   遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
です。四百頁を越える労作です。
 付録の人物略伝2(倭国編)の最初に推古天皇があげられています。
推古天皇(五五四~六二八、在位五九三~六二八)実在が確実な日本史最初の女性君主。和風諡号はトヨミケカシキヤヒメ。「推古」は八世紀後半に淡海三船が撰上した漢風諡号である。・・・
となっていて、実在が前提とされています。私は、持統天皇のイメージとしては存在していますが実際にはフィクションであったと考えています。この本では、実在したとして話が進められています。おそらく遣隋使を派遣したことで、その記録が隋書倭国伝と日本書紀の記述で合致するからであろうと思われます。しかしながら、私には合致しているようでしていないように感じます。皇国史観によれば合致してくれなければ困るという立場になると思いますが、冷静に日本書紀を疑う立場で考えれば、実在しているのは確実ではありません。
二十七頁に
史料の信頼性・作為性の問題がある。とりわけ「隋書」よりも半世紀以上も後に編纂された「書紀」にあっては、「倭国伝」を見ての作為・装飾を施した可能性は当然想定できる。
とあります。書紀の中で隋を一貫して唐(大東)」と表すのは、書紀が唐向けに書かれたものだからと思われます。律令を推進する勢力が過去の勢力との継続性を強調する意味で遣隋使が取り込まれていると考えられます。六〇〇年の遣隋使については入れる必要性はないと判断したと思われます。整合性は完全には取れていませんが、その逃げ道として、小野妹子の国書紛失事件を作ったと思います。乙巳の変の時にも、蘇我蝦夷が自害して、「天皇記」とかが失われたとかありました。これらの部分は間接的に書紀が作為の可能性をほのめかしているところと現在は考えています。推古天皇(聖徳太子も含む)と遣隋使を結びつけなくても良いということです。

2018年5月15日火曜日

島根県の安田

 郵便番号からの検索では出てこなかったのですが、地図で島根県を見て安田があるのに気がつきました。いくつかあるようです。今回は角川の地名辞典から見ます。
 まず良くわからないところから。
安田村(益田市)
明治二二年~昭和二七年の村名。明治二二年に津田・遠田二村の合併によって成立。大字は旧村名を継承、2大字を編成。村役場を大字遠田に置く。村名は最初、多並《たなみ》村といったという。とあります。なぜに安田となったか不明です。現在も安田小学校などがあるようです。
安田村(浜田市)
中世にあったようです。よくわからなかったのですが、平凡社の日本歴史地名大系には浜田市の熱田村のところに、中世には安田・阿田とも記された。とあります。沖縄県でのアダの読み方と通ずるものがあります。
 一番本命らしきところです。
安田(伯太町)
安田山西麓の地で伯耆国に接し、伯太《はくた》川の中流域に位置する。古くは屋代《やしろ》郷のうち、「風土記」に「通路《かよいじ》。国の東の堺なる手間剗《てまのせき》に通うは四十一里一百八十歩なり」と記されている。手間剗は安田関付近に置かれていた。郷庁も同様安田関付近にあったものと推定される。地内には古代に創建されたと伝えられる坊床《ぼうどこ》、岡ノ原、古御堂の廃寺跡がある。十二世紀の初頭には石清水八幡宮の安田別宮が置かれていた。とあります。安田村は伯太町に含まれ、現在は安来市伯方町安田ということです。安田のつく地名が多く残っており、古代からの遺跡も多そうで、出雲国にいたる戦略ポイントであったように思われます。
 地図では中央が伯方町安田です。左に出雲があります。出雲空港のマークが見えるかも知れません。


 島根県の安田の分布(よくわからない所を含めて)を見ていると、どうも出雲を包囲しているように見えてきます。出雲の地域が律令制を推進グループと対立関係にあり、律令推進グループが圧力をかけているように思えます。出雲国の国譲り神話をもたらす状態を作っているように見えてきます。つまり、出雲国を併合したのが七世紀の話となってきます。
 広島県の安田の分布を見ていると、こちらも吉備の国の西側にあり、近畿地方側と吉備を挟んでいるようにも思われます。これらの地域が、律令制を推進する勢力と対立していた可能性もあるように思われます。神話的な話で、吉備の国の反乱がありますが、これも実際は七世紀の話ではないかと考えたくなります。
 七世紀が聖徳太子の時代ではなく、ヤマトタケルの時代であり、日本の統一を目指していた時代で、安田の地名はその痕跡の可能性があります。
 妄想的な話はおいといても、七世紀には、安田の地名のところが、瀬戸内海側と日本海側を結ぶ交通路を確保するという戦略的な意味があったのは確実と思われます。

2018年5月12日土曜日

観心寺の出来た理由

 観心寺は、河内長野市にある古刹。古義真言宗・高野派の寺、大宝年間、役小角が開創し雲心寺と称したが、弘仁年間、弘法大師空海が再興して寺号を観心寺と改めたといわれます。実質的には一番弟子の実恵大徳で、工事はその弟子真紹ということのようです。観心寺が定められたのは、その位置が、高野山と京都の東寺の道中にあることにあり、この寺が真言宗にとって重要な寺との証明であり、以後の寺の隆盛の原因で、後世、摂津・和泉が開かれてからも観心寺が高野山から下りて諸国に広がる、いわば扇の芯のところとなったようである。高野山と観心寺の間は約四十五キロ、一日の行程である。観心寺で一泊、次の宿泊は大和飛鳥の川原寺(弘福寺)、そして奈良東大寺、四日目に東寺に入った。
このようなことが、古寺巡礼 西国2観心寺、淡交社発行に書かれています。
 平安時代には、寺のネットワークで、移動が確立されていたということだと思います。直接に高野山から東寺に移動するのは大変ですが、泊まる地点を確保すればかなり容易になると思います。戦国時代に各地を僧侶が自由に移動できたという話がありましたが、寺の経路が、律令制度の崩壊の後も残っていたのかもしれません。

2018年5月5日土曜日

沖縄県の安田

国頭《くにがみ》郡国頭村の安田《あだ》
 角川日本地名大辞典47沖縄県より
方言でもアダという。沖縄本島の北部の東海岸、国頭山地分水嶺の東斜面に位置し、太平洋に面する。・・・安田川が段丘上を東流し、下流部で小規模な沖積地をつくって海に注ぐ。海岸にはハラサキの環礁や伊部の干瀬が発達。東海上に安田ヶ島がある。集落は安田川河口左岸に立地。尚思紹王(1406~21在位)の頃に今帰仁《なきじん》城の落武者ウファ里之子が村を立てたと伝える。沖縄考古編年後期の安田遺跡がある。
とのことです。アダとのことでヤスダとは関係ないと考えましたが、そうではないかもしれません。安田組をアンダと読むので、最初はこのように言ってた古い形がそのまま残ったこともありえます。高知県の安田町も遣唐使の渡航経路と関係あるかもと考えていたので、この地も、四国の南側、九州の南、沖縄、中国へ向かう航路が考えられていた可能性はあります。律令制が確立していく段階での痕跡ということです。唐の高僧鑑真も何度も失敗の末に沖縄経由で来ています。もちろんこの時は太宰府経由のようで、太平洋側を海伝いにではなくなっていますが、最初は太平洋側の航路も考えられていて、その拠点として安田があったことになります。地名ですが、近くに大宜見《おおぎみ》というところがあります。大王《おおきみ》を思い浮かべます。角川の大辞典では、方言ではイギミといい、饒波《ぬうは》の小字ギミ(喜味)に関係するかとも言われる。とあるので、強くは言えませんが。またクニガミですが、国守ではなくて国上で、国の北の方の意味だそうです。中頭《なかがみ》は首里よりも近い北の意味中上とのこと。
 また沖縄の考古編年ですが、後期というのは、四期あり、弥生時代前期・中期・後期・古墳時代から平安期となっています。最後が大雑把な気がします。それと、平凡社の日本歴史地名大系には、安田村の遺跡については何も記述ありません。
 地図を見て、この場所に条里制の田とか、ちょっと想像できませんが、
宝亀10年(779年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。(ウィキペディアより)
とのことです。詳しいことはわかりませんが、奈良時代には命がけの渡航なので、途中路の整備の話もありうると思います。ほかにもっと痕跡が残っていれば、確実になりますが。地図の拡大で安田の地を見てください。


(追記):H30.05.12 太平洋側を通って、中国に進むのは、黒潮の流れに逆らっているので難しいかもしれません。しかし復路の場合は流れに沿っているので可能性は高くなります。時間があれば検討したいと思います。

2018年5月4日金曜日

高知県の安田

高知県安芸郡安田町です。古くは安田村。
 安田川河口に位置し、東は田野村(現田野町)、西は唐浜《とうのはま》村。集落の中心は安田川西岸に発達した浦町で安田浜・安田浦ともよばれた。東岸の大野大地南縁には不動などの集落があり、海岸沿いには土佐街道(東街道)がある。「和名抄」所載の安田郷の中心と思われ、安田八幡宮境内から弥生式土器なども出土、古くから発達した地と考えられる。中世には港としても発達していたらしく、文安二年(一四四五)一年間に兵庫津に入港した廻船を記した「兵庫北関入舩納帳」に、安田浦に船籍を持つ一〇〇-二〇〇石積の廻船一艘が記される。積荷は木材である。・・・
 安田村の横に唐浜村があります。高知市に唐人町があり、ここは豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、長宗我部元親が朝鮮から連れてきた朝鮮慶尚道秋月の城主ら三〇人を移住させたことによる。とあります。この唐浜村は天正一五年の安田庄検地帳で唐浜村とあるので、朝鮮出兵の前からあったことになります。
 角川日本地名大辞典には、唐浜の地名由来について、昔、家一軒に必ず一〇本以上の橙の木を植え、それから取った酢を貢物として藩に納めることになっていたため、「橙の浜」、「橙《とう》の浜」とよばれたという伝承がある。と書いています。
 私は素直に、遣唐使の航路にこの安田の場所が考えられており、その結果の地名と考えたいです。律令制を推し進めるグループにとって、瀬戸内海ルートが使えなくなった場合、太平洋側の航路の一つの戦略的なポイントと考えていたと想像します。これぐらいしか思いつきません。
 この地には、鎌倉時代末期から戦国時代にかけての安田城跡があり、麓には大木戸古墳群とよばれる七世紀の横穴式石室を有する円墳があったということです(高知県の歴史散歩)。