2015年2月25日水曜日

夏見廃寺

 近鉄大阪線で名張付近で窓から風景を見ていると古い時代に開発された地域の雰囲気が残っているように感じます。さて夏見廃寺ですが、伊勢と奈良の間にある名張市で昭和12年古瓦発見から調査されたものです。
 金堂と塔を中心とした伽藍配置が確認され、金堂の建立は7世紀末とされています。
 (大形多尊塼仏の須弥壇部分に「甲午年□□中」(694年)の表記があることから)
 説明文の写真は発掘当時のもののようです。

 金堂の礎石配置から、桁行3間、梁行2間で内側の身舎(モヤ)と呼ばれる部分と外側の廂(ヒサシ)と
呼ばれる部分も同じ柱間数です。これは奈良県飛鳥山田寺の金堂跡などがあるが珍しいものらしいです。下の写真の青と赤のラインです。写真の上が南側でそちらが正面になります。

 壬申の乱の時に吉野からの移動の時に名張が出てきますが、藤原京ー伊勢神宮が持統天皇の時代に関連していて、そのときにその間にある夏見廃寺があったことから、この地域の強い結びつきを感じます。見学した時は私だけでしたが、伊勢と藤原京をつなぐ重要なルートでもっと注目されて良いところだと思います。

 追記(H27.2.26)
 
 
 
 
  多分、理解不足のところがあります。せん仏が御所市の二光寺廃寺のものと似ているものがあり、時代的に共通するものがあるとのことですが、あちこちに似たようなところがあるのかもしれません。この投稿を削除すべきかもしれませんが、このままにしておきます。


2015年2月20日金曜日

住吉大社2

 高槻市立しろあと歴史館の企画展「郷土玩具と出会う場所 ~神社・お寺・名所おみやげ市~」を見に行ったら摂津名所図会などが展示されていました。神社などの名所図会の中に住吉大社もありました。写真を撮らしてもらいましたが、図の左上の神宮寺は明治の廃仏毀釈運動でなくなっています。右中が住吉大社です。第1宮と第2宮は塀のようなもので囲まれています。今はありません。明治のその時に大社の塀が取り除かれたのかもしれません。その古い時代のものがそのまま残っているとは限らないということです。図は寛政10年・1798年となっています。


最近、名所図会をゆっくり見てませんでした。
  

2015年2月19日木曜日

天皇の系図について

 宮内庁のホームページの天皇系図を見ていてエクセルでグラフにしてみました。
横軸が神武天皇からの在位の順番に対し、縦軸は神武天皇から何世代目かを示したものです。
神武天皇は1の1です。第99代の後亀山天皇は52世代なので、横99の縦52です。
兄弟は同じ世代とカウントしています。
 系図では気がつかなっかたのですが、グラフを見ると
段階Ⅰ、段階Ⅱ、段階Ⅲとパターンが違うように思えます。
段階Ⅰ・・・日本書紀で考えている理想の状態で、親から子へ皇位が継承されるパターンで、
      直線的に変化しています。
段階Ⅱ・・・階段状になっています。皇位が兄弟に継承され、その後次世代に継承されています。
      天智天皇から天武天皇への継承の伏線となっていると思います。
段階Ⅲ・・・継承が乱れている段階です。
      推古天応→一世代飛ばし→舒明天皇とか持統天皇→一世代飛ばし→文武天皇など
      持統天皇からの皇位継承を過去にもあったという実績作りのように思えます。
   

追記(H27.2.21)
天智天皇->天武天皇と思い込んでいましたが、
系図では、天智天皇->弘文天皇->天武天皇となっています。ウィキペディアで見たら、弘文天皇は明治になってから諡号を贈られたそうです。
日本書紀では天智天皇->天武天皇を主張したがっています。そのために段階Ⅱがあるということだと思います。

2015年2月14日土曜日

日本書紀の考え方

 前の投稿で言ってますが、国の理念的なことを聖徳太子を通して記しています。
後、考えることとして、天皇の系統性を強調しています。
それが日本書紀作成の時代の理想とする考え方だと思います。
 これは実際には、当時においては天皇の継続性はなかったからではと想像させます。私のイメージとしては戦国時代の政略結婚のように天智天皇の娘が天武天皇に嫁に行ったということではと想像します。安田仮説では西日本が統一されたとしていますが、西日本の地域が連合していく段階であったのではということです。おそらく東アジアの不安定な中で外圧的に日本の中がまとまらなくてはいけない状況に追い込まれ、その連合政権の中での主導権争いのようなものが壬申の乱とかいろいろな粛清のような事件があったということが考えられます。単なる想像ですが、成立するのかどうか考えていきたいと思います。

2015年2月12日木曜日

聖徳太子の考え方

 聖徳太子は作られた人だということですが、理由についてはわかっていませんでした。
ただ単純に推古天皇の時代に「和を以て貴しと為す」というのに違和感を持っただけでした。
しかし奈良時代の政治的な抗争などを見ると、日本書紀の書かれた時代に、対立だけの歴史書では情けないと当時の人は感じて、国家の理念を含まない歴史書では価値がないと考えたのではと想像します。そのために推古天皇と聖徳太子を作り上げたということです。当時においても遣隋使が男王であったことは多分認識していたとは思いますが、理念が大事で些末なことは気にしなかったのでしょう。天皇の系図でも推古天皇のあたりから、皇位継承が横広がりになっていて操作されている雰囲気があります(個人的主観です)。
 強い意志を持って国家としての理念を盛り込んだもので、単なる辻褄合わせでは無いですが、日本書紀を単なる歴史書として見てはいけないのだということでしよう。至極当然な考え方だと一人納得しています。

2015年2月9日月曜日

東大寺

743年、聖武天皇、紫香楽宮において、大仏造立の詔を発する。
752年、東大寺大仏の開眼供養が催される。孝謙天皇参列、聖武太上天皇と光明皇太后も臨席。
とあります。
 持統天皇の時には国家神道と思っていましたが、聖武天皇の時代には大きく変化しています。
山川日本史では、東大寺大仏を中心に国ごとに国分寺を配して、天皇に統合される平安国土を祈ったからであろうと記述されています。国家仏教になったようです。政治的には不安定で都を平城京から、山城の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と移していて、社会不安が深刻になり仏教に頼ることになったとのことです。昨年の正倉院展で聖武天皇の御杖刀(仕込み杖)が展示されていました。一見すると杖に見える刀で、身を守るためのもので、乙巳の変などが想定されていたのかもしれません。切羽詰まった状況を想像させます。
 またこの時代の皇位継承も素人目にはわかりにくいもので、道鏡が皇位につくような話など本当かなと思います。系図を示しますが、重祚で孝謙天皇・称徳天皇と皇極天皇・斉明天皇と推古天皇・持統天皇の関係、似ているように感じます。思い込みかもしれません。奈良時代というのは混
乱の時代であったということは確かであろうとは思います。

系図は宮内庁ホームページより抜粋してます。

追記:H27.2.28
「物部・蘇我氏の神仏争い」について
事実ではないと思いますが、日本書紀の書かれた時代に
神仏が重要な問題となっていて、反映されたのかもしれません。