2014年10月31日金曜日

正倉院展

 人がいっぱいでした。見る価値はあると思いますが、マイペースでは見学できません。
一度展示されると、次の展示まで原則10年以上あけるとのことです。もう見ることは出来ないものもあると思いました。
 興味を持ったのが、正倉院に残された古文書でした。以下、購入した目録を見ています。
・出品番号37.東大寺開田地図 越中国射水郡「くぼた」または「こてだ」(漢字が出ません)
 現在の富山県北西部に存在した東大寺領荘園の範囲と開墾状況を記した地図。条里制を表すようにマス目に書き込まれている。天平宝字3年(759)作成年月日になっている
・出品番号38.東南院古文書
 37とペアになるもので東大寺より明治初年東大寺より皇室に献上され、正倉院宝物となった。
・出品番号40.正倉院古文書正集第十五巻
 伊賀国・志摩国・尾張国の財政関係の報告書

 これらの地域を見るとおそらく天平時代の版図の東側を想像させるものです。

・出品番号41.正倉院古文書正集第41巻
 大宝2年(702)の豊前国(福岡県)の戸籍の断簡をを集めたものである。
 戸主は塔勝岐弥(とうのすぐりきみ)で年齢34歳、正妻の若売(40歳)、妾の秦部黒売(42?)、妾の塔勝徳売(37?)と続いており全体で51人もの戸口(構成メンバー?)がいたとあります。
 塔勝というのが変な名字?といって良いのかわかりませんがなんだろうと思います。年齢差も気
になります。私のイメージしてた戸籍と違い、安田仮説のもやもや部分になります。古文書をにらんでましたが結局わかりませんでした。すらすら読めるようになりたいものです。

2014年10月23日木曜日

岡本と山本

 法隆寺に行ってきました。飛鳥様式の建築ということで、説明を聞いて、金堂・五重塔の雲斗雲肘木は今回はわかりました。個人的には、聖徳太子との関係で注目される金堂釈迦三尊像、金堂薬師仏を拝観しましたが、複数の「古代」で述べられている両方の仏の違いはわかりませんでした。光背の裏に銘文があるそうで、金堂の裏に回って見ようとしましたが、全然わかりません。素人では難しいと思いました。本に示されている資料を見ないと無理のようです。飛鳥様式ということで近くの法起寺というところに法隆寺の五重塔を模した三重塔があるそうです。行けば良かったです。法起寺が古来岡本寺と呼ばれていたとのことで、名字の岡本に関係するかと思いました。ネットで検索すると大山誠一氏の「法起寺塔露盤」の成立についてというレポートが出てきました。聖徳太子は実在しないという論文の一環のものです。少なくとも平安時代前期までは岡本寺とは呼ばれてはいないとのことでした。岡本宮は飛鳥にあり、斑鳩には無かったと述べられています。そのレポートの中で山本宮=岡本宮と考えれています。山=岡ということです。
確かに大和三山の香具山 比高62m、畝傍山 比高127m、耳成山 比高66mです(大和三山の古代、上野誠著より)。山ですが、丘(岡)といっても良いようなものです。岡本と山本は同じ意味の名前でと考えられるようです。山本は7世紀末とされる木簡にあったそうですが、山本という名前はもっと古い時代にあったと思います。

2014年10月14日火曜日

古事記と日本書紀の考え方

前の投稿からの続きです。
古事記が推古天皇までで終わり、日本書紀は持統天応までで終わるとのことです。
日本書紀の推古天皇からフィクションとして考え、推古天皇からを削除すれば、素人考えですが同じ内容になるのではと思いました。もちろん推古天皇=持統天皇です。オリジナルの古事記に対し、持統朝の正統性を日本書紀で入れ込んだため、古事記の最後が推古天皇までさかのぼってしまったように見えるのではないでしょうか。

2014年10月13日月曜日

【複数の「古代」】という本

 上記、神野志隆光(コウノシタカミツ)著を図書館で借りてきました。20007年10月20日第1刷発行となっています。
非常に参考になりました。
 私の勘違いかもしれませんが、以下メモです。
メモ
1.日本書記は持統朝から見た歴史である。
2.推古朝の歴史はフィクションである。もちろん全てがでたらめというわけではない。
 ---途中省略---
3.日本書記では聖徳太子の文字は見えない。皇太子はある。
4.万葉集はもう一つの歴史である。
 もっと早く知ってれば良かったと思います。安田仮説は、かなり遅れていました。

 なぜ万葉集があるのかということについて
この本では、古事記での「言向け」がキーワードであると述べられています。「言」(服属を誓うことば)をこちらに向かせるの意味だそうです。倭建命の話で・・・
荒(あら)ぶる神とまつろはぬ人等(ひとども)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平(たいら)げよ。とあるそうです。
 日本の統一に向かって、軍事的に制圧するとともに言語による支配が必要であるとのことだと思います。日本語らしきものがまだ確立していない中では、当時は言葉が重要視されていた。万葉集の編者が大伴家持で、大伴氏は大いなる伴、すなわち天皇の側近ナンバーワンの家柄であり、軍事と言葉の世界のとりまとめをしていたのではと思います。日本書紀は天皇・藤原氏の歴史書であるのに対し、万葉集は大伴氏の歴史書であるような気がしてきました。

2014年10月6日月曜日

五体字類

 古い文字を読めるようになりたいと言ってたら、Iさんから五體字類を勧められました。
グーグルブックスで、最初の版が五体字類としてダウンロードできるのでタブレットとかで使用することができます。著作権が切れて、無料なのがうれしいです。しかし、ページ番号が逆さまで目的の漢字にたどりつけないようで使いにくそうです。改訂版は古本とかで安く1000円ほどで入手できそうですし、改訂3版を図書館で借りてきましたが、やはり見やすくなっています。最新の改訂4版は、貸し出し中で見ることが出来ませんでした。後ほど改善されているようですが、様子うかがいでしばらくフリーのもので頑張ってみようと思います。とにかく、スマホとかタブレットで五体字類が読めるとは思いませんでした。
暇なときに眺めていれば、なじんできて古文書が少しは読めるようになるかもしれません。

2014年10月2日木曜日

兵主大社

 前の投稿に関連してアップします。
 元の住所は野洲郡中主町大字五条とのことです。中主とは旧村名「中里」「兵主」から採った合成地名だそうです。今は野洲市五条となっています。五条という地名から条里制を思い出します。地図を見て、近くに井口というところを見つけました。井とは単純ですが縦横の2本線から条里制を表す漢字です。つまり井口は条里制の田んぼの入り口を表しています。神社が条里制の田んぼの周囲に配置されること(マイ仮説?)を考えると、兵主大社もこの頃からあった可能性大です。たまたま図書館から借りてきている「空から見た古代遺跡と条理」という本のP.68-69に西河原森ノ内遺跡が載っています。兵主大社の南側に位置し、航空写真がありますが、残念ながら兵主大社はぎりぎりはずれています。この本では7世紀中葉から10世紀前葉の重層し重複する官衙状の建物群がこの地にあると書いてあります。
このページの下に参考として
辻広志(1992)「西河原森ノ内遺跡第13次発掘調査」「平成3年度中主町埋蔵文化財発掘調査集報Ⅰ」とあります。

兵主大社庭園について
 図書館に行き、日本庭園史大系の兵主大社庭園のところを見てきました。鎌倉時代の庭園と考えられています。昭和46年3月の実測図では南側から北を見る方向については間違いのないようには思いました。ただ真北ではなく、北西の方向に感じました。
 この本の解説では、五条・六条の地名は、「近江国輿地志略」の中から五条・六条家の領地なる故となっていると引用しています。五条から条里制と思いましたが、歴史とともに変化していってるので単純にはいかないようです。井口も井ノ口となってました。井口から条里制に結びつくとは思いますが、五条・六条からは結びつかないことになります。しかし、しばらく条里制として考えてみます。